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【創世記編】第1回:京都のトム・ブラウンたち(2020/7/1 配信)

イングランドのパブリックスクール「ラグビー校」でウィリアム・ウェッブ・エリス少
年がフットボールの試合中にボールを拾い上げて走った。それがラグビーの起源であると
いう話は、あとから作られたものだというのが今では通説だ。とはいえラグビー校がラグ
ビー・フットボール発祥の地であることは揺るがない。


19世紀の英国で、いろいろなルールで行われていたフットボールのうち、ラグビー校
式のゲームが広がったのは、1冊の本のおかげだといわれる。同校のOBで、キリスト教に
基づく社会改革者で教育者だったトマス・ヒューズが、息子のために書いた「トム・ブラ
ウンの学校生活」である。1857年に出版されたこの本は、ラグビー校の自由な教育の
もとでのびのび成長するトムの姿を描いて、ベストセラーとなった。その学校生活の重要
な要素がフットボールだった。


そしてこの本は、京大の源流である京都の第三高等学校でも英語の教材として使われて
いた。 Kobunsha発行のTom Brown's school days at Rugby. : Adapted to Japanese
studentsである。1899年発行だから、1910年の三高ラグビー部創設のころにはす
でに使われていたかもしれない。「三高蹴球部史」の中の個人の回想に「ご存じの通り、
あの本にはラグビーの話が出てきて、誰でもラグビーを知らない英語の先生には、今も難
物とされている」という記述がある。


19世紀当時、英国のパブリックスクールは上流階級や中産階級の子弟の教育機関であり
、その卒業生の多くはオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進んで社会の中枢を担
った。トマス・ヒューズが描いたころのラグビー校は、トマス・アーノルド校長の下で先
進的な全人教育を施し、他のスクールのモデルになった。


三高の学風もまた自由だった。明治期に長く校長を務めた折田彦市の薫陶によるものだ
った。折田は明治の初めに米国プリンストン大学に留学したのち、教育の道に入った。
三高出身で昭和期に校長を務めた森惣之助は「三高の誇るべき特長は、真の自由とデモ
クラシーの伝統と、折田校長の人格の表徴ともいうべき―個人の人格を尊重し、信を人の
腹中に置く悠揚迫らざる麗しい校風と、であった」と述べている。


そこで育った人々は京大や東大に進み、のちに才能を開花させた。科学分野では湯川秀
樹、朝永振一郎、江崎玲於奈というノーベル賞受賞者がいる。文芸分野にも高浜虚子、河
東碧梧桐、山口誓子、大宅壮一、中野好夫、吉川幸次郎、河盛好蔵、梶井基次郎、桑原武
夫、三好達治、丸山薫、田宮虎彦、織田作之助、野間宏、小松左京らがいて枚挙にいとま
がない。


ラグビー校も三高も寮生活を基本とする。旧制高校生独特の「ストーム」と称する大騒
ぎは、寮を中心に行われた。京大に引き継がれている逍遥の歌「紅もゆる」はそんな中で
生まれた。同じような高歌放吟のお祭り騒ぎはラグビー校でも行われていたことが「トム
・ブラウンの学校生活」に詳述されている。
三高ラグビー部は寮生を動員して創始され、初期にその中枢を担った人たちが後に京大
ラグビー部を創設した。


ラグビーは部員以外の一般生徒にも広がった。中国史学者の貝塚茂樹は「昼休みと放課
後はたいてい草野球とラグビーの練習に過ごしたものである」と、ラグビーの全校クラス
マッチで優勝した思い出を語っている。


数十年の時間とイングランドと京都という地球半周分の距離を隔てて、同じラグビーと
いうスポーツをはぐくむ素地が築かれていったのである。

トム・ブラウンの学校生活(岩波文庫版) (1).JPG
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