高瀬泰司という人物を一言で表すことは難しい。京都府学連委員長という学生運動のリーダーであり、自主管理していた京大西部講堂で開かれるイベントやコンサートの仕掛人であり、文筆家であり、酒場の亭主だった。そして何よりラグビーを愛し、京大ラグビー部の大切な応援団だった。
2019年に西部講堂で「高瀬泰司とその時代」というイベントがあった。「パルチザン前史」という16ミリフィルムが上映され、高瀬氏を知る人が語り、舞踏家の麿赤児が踊った。46年の長くはない生涯は京都に「その時代」を刻んだ。 (S55 真田正明)
吉田山にラグビー団がある
吉田山の中腹、吉田神社の参道を登って、右へそれたところに、ぽつんと、煉瓦造りの呑み屋がある。屋号を「白樺」といい、母娘二代に継がれている。先代はみどり、かく言うぼくは、いまカウンターに立つ照美の亭主である。
旧制三高が廃止されたのは、みどりによれば、
「店開けてから三年目くらいのことどした。みなさん、紅萌ゆる、歌うて、おいおい泣かはりました。」
そうである。その頃の顧客のひとりに、現在京大ラグビー部OB会の、内藤資忠氏がおられた。
「内藤さんは、監督さんどしたやろ。よう学生さん連れて、呑みに歩いてはりました。わたしも時々、お伴させてもらいました。」
みどりの記憶によると、白樺と同じ町内に在った同姓の内藤氏が、同志社大ラグビー部の監督で、京大の内藤氏はそこを訪ねた道すがら、この辺鄙な山中の呑み屋に、足を停められたらしい。
「それはもう、ダンディなお方どした。」
内藤氏の印象を、七十歳になったみどりは語る。
もっぱら京大吉田寮の学生さんによって盛り立てられて来た白樺と、京大ラグビー部との縁をはずませてくれたのは、只井氏(四十年卒)であったろうか。面倒見のいい只井氏は、吉田山の麓の下宿から、いつも後輩をひき連れて登って来た。元気な千賀氏(四十三年卒)も居た。
白樺は、代が替ろうとしていた。常連の端っこに連なったとたんに、店の奥に居坐る仕儀となったぼくは、京大ラグビーの人たちと近づきになった。
ラグビーする人たちの青春の発揮は、ぼくが過ごしてきたそれと方角はちがっていたが、ラグビーを強くすることのみを語り尽くして、そこにひとつの説得力が生まれるのを、ぼくは見た。そこで語られる強さは、世間の普遍に通用するもののようであった。強さ、を問うて柔軟であり、しかも、論は体に覚えたところから出発していた。「これが京大のラグビーということか」ぼくは、漠然と了解したように思った。
その白樺で呑む人たちが、ラグビーチームをつくったのは、たしか四十六年のことである。四十四年から四十五年頃、どこの大学も、前例のない動揺を体験した。大学って何や。学生するって何や。ギモンが直截な行動を伴った。キャンパスの動揺が強引に鎮められた後も、学生は以前の学生ではなかった。
白樺は、大学の別をこえ、学生であることもこえた、得体は知れぬがエネルギイの集積する所となった。そうした喧噪のつづく或る深夜、「おい。ラグビーやろう。」と誰かが声をあげ、居合わせた面々いっせいに、「よし。走ろう。」腰を浮かせた。
広い野に立つ時、わあっと走りだそうと体を駆る衝動は、歓びによるか、人類の遠い記憶のなかの恐怖に根ざすか知れないが、全力で走ることは、想像するだけで、つんと胸を熱くさせるものがある。その夜、白樺によぎったのはこの「走るイメージ」だった。
走るイメージが、楕円の球をかかえるに至ったのは、白樺に出入ずるラグビーする青春が煽る風と、無縁ではなかった。
さて、走りだした。しかし一クセも二クセもある人たちだ。走るにもめいめいの向きがある。球をパスするにも、陣地を前へ進めるという合目的性のみによらない。パスするのは、めいめいの生きる気合とでも言うべきものであったから。チームとなって、試合できるまでに、一年間かかった。吉田山から生まれたチームだから「吉田ラグビー団」と名付けた。
創生期の吉田ラグビー団に対して、そうしたラグビーもあり得る、とぼくらの我流ラグビーのどの要素を発展させればよりラグビーを楽しむことができるか、実際の動きで控え目に助言してくれた田代氏(四十八年卒)を、ぼくは忘れない。
こうして、職種もさまざまな一クセ二クセたちの毎日曜日は、ラグビーとその後の底がぬけるまでの酒宴に、ささげられた。走りと格闘のラグビーを核に、なんでも楽しもうとする意欲が密集し、黄金色に輝やいた日曜日の数々が、いまも見える。
いったん休眠ののちの新生吉田ラグビー団には、まばゆい個性に替わって、透明にひたひたと湛えられるものがある。試合ごとに、その湛える水面が高くなってくるのが見える。試合ごとに、強くなってくるのが、目に見える。
こう言っていいかも知れぬ。チームが、その試合で実現したい、共通のものを見ている。それを実現しようと、走りつづけてあきらめない。ただただ、あきらめない。じぶんから限界を引くことをしない。走りぬいた先に、自ずと次に実現したい像を見る。
ラグビーゲームは、瞬間々々に、勝つプレーをイメージし、そのイメージをチームが共有したとき、勝ちに向って展開するのだろう。吉田ラグビー団は、まだそれには遠いが、加速はさらに加速をよびおこして、いまをふっ切り、そこに共有されるだろうイメージに向かって走っている。
ぼくは、彼等の疾走に、彼等がひたひた湛えるものに、目を洗われる。
いいチームになる。
吉田ラグビー団のリバイバルに、若い京大ラグビーOBの夏山氏(五十四年卒)の刺激激励、それに我慢できず高橋氏(五十三年卒)松永氏(五十五年卒)は自ら率先走って、原動力となった。さらに、加藤氏(四十五年卒)の率いる京都八幡高校教員チームとの出合いは、ぼくらのラグビーする楽しみを、更に豊かにしてくれるだろう予感がある。
吉田山のラグビー団は、ラグビーの裾野の一端である。その裾野から、伯父さんとも呼ぶべき京大のラグビーを見て、期待したいことがある。強さを見たいのである。部六十周年のこの際、京大のラグビーが、まずリーグに冠たることを、本気でイメージしてほしいと願うのである。できないことは、ない。
その本気を、挙げて支援したいと希う者は、ずいぶん多いのである。
高瀬泰司・吉田山白樺亭主 S62年(1987年)逝去。京大ラグビー部60年史より再編集。
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