052: 【創世期編5】打倒慶応の夢かなわず/三高蹴球部(S55 真田 正明)

 慶応からラグビーを伝授された三高蹴球部(ラグビー部)の目標は、つねに「打倒慶応」だった。結局、目標は達成できずに旧制高校の歴史を閉じるのだが、最も夢に近づいたのが創部10年を前にした1916~19年ごろである。

 創部当時のメンバーが抜け、資金難にも陥り、三高蹴球部はできて数年で活動の低迷期に入った。それを復活させたのが谷村敬介、香山蕃ら京都一中でラグビー経験を積んだ選手たちだった。


 谷村が入学したのは1916年。この年度、三高は同志社、横浜外人を0封した。慶応には前半6-3とリードしたものの、後半に追いつかれ6-6と引き分けた。翌年、中学では1年上級だった香山が入学し、谷村、香山の強力CTBができた。神戸外人に28-0と大勝し、慶応とは0-3の接戦だった。

 1918年度は谷村が主将で、慶応には0-9で敗れている。この年度は、創部直後の早稲田と対戦し、15-0で降した。早大とは1926年までに5回対対戦し、3勝1敗1分け。三高は早大に勝ち越している唯一のチームと言える。翌19年度は香山が主将を務め、慶応とは0-3。しかし、この試合でのゴールポスト直下のトライがレフリーに認められなかったとして、三高蹴球部史は「幻のトライ」と伝えている。これが認められれば5-3になった可能性があり、歴史上唯一の勝利となったかもしれない試合だった。

 打倒慶応の志は、グラウンド上だけにとどまらなかった。慶応から教えられたラグビーを根本から学び直そうと、すでに京大生になって三高のコーチをしていた谷村敬介が、英国に滞在していた兄順蔵に頼んでラグビーの技術書を送ってもらった。それらの翻訳に取りかかったのが、1920年に入学してきた英語の得意な巌栄一(京大1927年卒、後に日本協会副会長、関西協会会長)だった。巌と奥村竹之助(同1926年卒、後に日本協会専務理事)、馬場二郎(同1924年卒)らで、オールブラックスの主将、副将が書いたThe Complete Rugby Football の付録にあったルール集を翻訳し、小冊子「ラ式フットボール規則」にまとめた。当時としては初めての日本語で書かれたルールブックだった。

 原書を読むうちに彼らは、当時主流だった慶応式の7人FWが、本場の戦法ではないことに気づく。そして8人FW戦法の研究に熱を入れた。そのエイトシステムは、巌らが進学したのちの京大で開花する。


 1922年には英国皇太子を三高グラウンドに迎えた。主将の奥村竹之助らが京都府庁に掛け合ったが一蹴され、箱根滞在中の皇太子に直接手紙を出して実現した。急遽、神戸外人に試合を申し込み、8-3で三高が勝った。試合前に皇太子は、選手一人ひとりと握手した。1928年には秩父宮が来校して、三高対京大1、2年生の試合を観た。


英国皇太子エドワードの署名(毛筆)。離京時に、京都駅に三高生をお召しになって台覧記念としていただいた
握手賜る英国皇太子:英国の貴顕紳士はシルクハットの盛装。握手賜る選手は小西恭賢

 ただそのころから、三高ラグビーは次第に精彩を欠いていく。昭和初期の不穏な世相の中で、高校生もラグビー三昧とはいかなくなった。京大、東大など大学に進んだ選手たちは、強くなったそれぞれのチームの練習に忙しく、かつてのようにコーチに来られなくなった。大学チームに伍していた三高は、並みの高校チームになっていった。

 しかし太平洋戦争中も、「闘球」と名前を変えたラグビーを、食料集めや防空壕掘りの合間に裸足やわらじ履きで続けた。三高が細々とでも続けていたことが戦後、国内最初のラグビー試合につながる。


 敗戦翌月の1945年9月16日、三高OBの谷口敏夫(京大1932年卒)の家に関西ラグビー俱楽部のメンバー8人が集まり、クラブの復活と三高との試合を決める。試合は9月23日、京大グラウンドで全三高対関西ラグビー倶楽部として行われた。約千人の観客が集まり、関西倶楽部が24-6で勝った。試合の後は、関西倶楽部のメンバーが軍部から入手した、パンと缶詰のゆで小豆でミーティングをしたという。関西倶楽部は翌週には京大とも試合をしている。


 学制改革で、三高は京大に吸収される形で姿を消した。三高蹴球部としての最後の試合は1949年1月4日、三高グラウンドで慶応と行われた。開始早々先制トライ(ゴールも)するなど健闘したものの、骨折でFWを1人欠き、さらに脳震盪で1人はずれた時間もあって、11―26で敗れた。この年、三高は高校相手には不敗で、「もし存続していれば当分三高の全盛時代は続いたと思う」と最後の主将、堀田鉄也(京大1952年卒)は回想している。

(S55 真田 正明)

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