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076: 13年間の監督として〈後編〉(S39 市口 順亮・元京大ラグビー部監督・元新日鉄釜石ラグビー部主将/監督/部長)

 市口順亮氏(S39年卒)が、監督時代の夏合宿や今も続くデジタルニュース、部員との交流など、思い出を振り返った。(京大ラグビー部90年誌より)


平成18年(2006年)3月17日、市口監督の教え子が集まって慰労会が開かれた。


4.夏合宿について


1)山中湖から菅平へ

 指導を開始した年の夏合宿は、山中湖で行われた。宿は、湖畔の観光地の民宿であった。周りには、テニス、アメリカンフットボール、さらにはラクロスの練習は見られるものの、ラグビーの影はなかった。特に目に入ったのは、テニス合宿で訪れる女子学生の姿であった。

この年夏合宿入りした約80人のうち約50人が、試合をするため菅平に移動した。そこで泊まったのが佐久山荘である。山中湖とは正反対で、周りにはコンビニも無く、ラグビーに打ち込める環境に私が惚れ込み、翌年から夏合宿は菅平となった。

当初は、風呂等の不清潔さが気になったが、たまたま佐久山荘の娘さんが東京のラガーマンと結婚され、彼が宿舎を大改造。温泉を宿に引き込み、常時風呂を使用できる等の改善が行われ、素晴らしい環境が整った。雨後、田んぼのようになり、練習すら覚束なくなる天然芝、腐った草の臭いに悩まされて来たグラウンドも、菅平では最も早く平成12年に人工芝となり、練習計画がスムーズにこなせるようになった。


2)夏合宿を7日に短縮


平成12年(2001年)の主将、福本匡志選手。

 平成12年までの夏合宿は、10日間行われた。しかし、部員が減少して10日間の合宿はつらいものとなってきた。当初は、最初の4日間はクロスカントリー等で徹底して体をいじめる。中一日の休み後は、試合を中心とするスケジュールであった。しかし、前半で怪我等でリタイヤする選手が出ると、試合の出場選手集めに苦労するようになり、成果が上がらなくなってきた。これらを打開する意味と、福本主将の提案もあり、平成13年の夏合宿から7日間とした。


3)学外コーチの招聘

 夏の菅平には、沢山のラグビー関係者が集まる。考えの違う人の練習や技術に触れることは、長い目で見た場合には、きっとプラスになるだろうと考え、学外コーチを招聘してきた。平成10年(小原主将)年は、エディ・ジョーンズ氏(平成24年から日本代表ヘッドコーチ)、平成12年(榎原主将)は林敏明氏(神鋼、元ジャパン)の講話とコーチを受けた。平成12年には、勝田氏(日本協会)からもコーチを受けている。



5.デジタルニュース


 メールで試合結果をOBに知らせるデジタルニュースの第1号は、平成9年(本田主将)年4月27日に発信された。第1号は5試合の結果をまとめて載せたが、以降は試合毎に結果、メンバー、監督・コーチ・主将、さらに出場選手のコメントが記されるようになった。

 白石良多君(S54年卒)の尽力に負うところが大きいが、当初は女子マネージャーの苦労が大変であった。現在のようにメールでやり取りするのではなく、メモ用紙に走り書きでコメントを書いて女子マネージャーに渡した。しかし、選手が書き忘れたり、女子マネージャーがメモ用紙をなくしたり。帰宅した自宅に電話があり、女子マネージャー宅にファックスを送ったこともあった。女子マネージャーは、判読し難いメモを打ち直す。その苦労は察して余るものがある。当時のデジタルニュースは誤字・脱字・言い回しの間違いが多く見られたが、女子マネージャーを責めることは出来ない。


1997年にスタートしたデジタルニュースの第1号。

 指導する側にとっても、デジタルニュースは大いに役立った。デジタルニュースが出現するまでの4年間は、私の記録に勝ち負けは残されているものの、しばしば、試合のスコアが抜けている。デジタルニュースができてからは、トライを取った時間、誰がトライをしたかまでわかるようになった。私自身が試合を振り返るに当たり、従来のアナログ的な曖昧な見方から、数字でとらえるデジタル的な見方ができるようになり、特に翌年の試合に大いに役立った。

 試合中に記録を取ることは、簡単そうに見えるが、ラグビーを知らないとできない。入部後、特別の訓練を受けるわけでないのに、2回生頃には、我々に役に立つ記録を取り、それをデジタルニュースに流してくれる。これまでの女子マネージャーの苦労に改めてお礼を申し上げると共に、今後も長く受け継がれていくことを願っている。



6.85kg未満ラグビーの提案


 平成14年に行われた80周年記念シンポジウムで、司会のラグビージャーナリスト村上晃一さん宛てに出した私の発言案は、当時の大学ラグビーの問題点をまとめたものだ。以下に一部を紹介する。


関西の大学ラグビーは次の三つの問題点を抱えている。

第1は、部員数の減少である。5年前と比較すると、Aリーグで7.8%、Bリーグで18.3%、Cリーグで22.6%、Dリーグでは、16%の減少となっている。下位リーグほど深刻になっており、特に国公立の大学はひどい。京大では、5年前に比較し、86名の部員が40名になった。元々、Aリーグに集中している人材が、ますます上位校に集中する傾向が強まっている。なお、京大・神戸大の場合は、マスコミの露出度の違いから、アメリカンフットボールに人材が流れる傾向が強い。

 2点目はFWを確保出来ないことで、頭が痛い。この傾向も下位校ほど深刻だ。京大では、シーズン通して以前はスクラムを8人同士で組めたが、現在ではマシン相手に組むのが精々である。

 3つ目は、FWの平均体重の上位校との差が開く傾向である。前回のワールドカップでのジャパンとウーエルズの体重差は8kg。社会人と日本選手権に出る学生との差は8kg。現在各レベルでその体重差を克服出来ない状況にある。40年前の同志社・慶応の体重は、72kg程度、これは、現在の高校大会に出場した51校の最下位である。京大は63kgと51位に入ることの出来ないレベルにあり、上位校との差は7kg程度あった。この40年間に同志社・慶応は21kg強の伸びがあったのに対し、京大は14.7kgしか伸びず、現在78kgで高校生の40位。その差は開く一方で、14kg差まで広がっている。FWの体重差がレベルを決定する傾向が強く、学生がラグビーを敬遠する大きな原因になっている。体重差を是認しての試合は安全上も問題だ。


 これらの問題点から「85kg未満ラグビー」を提案した。それから3年後、司会をされた村上さんのブログで「85kg未満ラグビー」が取り上げられている。


「2005年8月6日から14日まで、タイ・プーケットで、タイ・ラグビー協会の主催で、体重85kg未満の選手のための大会が開催されることになり、タイ代表、オークランド州代表、ニューサウスウェールズ州代表、日本が招待されました。この大会は豪州協会が中心になり『体格のハンディーのあるアジア地域のラグビー発展』のために考案されたという。本来は日本が主導で考えなければいけない大会だった気がするけど、日本は体格のハンディーを克服することを目標に戦ってきたから、そういう発想にはなりにくいのだろう。

 京都大学ラグビー部の市口監督は、新日鐵釜石7連覇の基礎作りの理論的支柱だった人だが、市口さんは京都大学を指導するようになってから、体の小さなチームで85kg未満ラグビーをやったらどうかと提案されていた。2002年5月に京都大学ラグビー部80周年記念シンポジウムが開かれた。僕は進行役として参加したのだが、市口さんは、ここでも85kg未満ラグビーについて発表されていた。

 市口さんの論旨は、おおよそこんな感じだった。「社会人と大学の差は体重の分が大きい。高校や、ラグビースクールを見ていても、ぶつかる練習ばかりしている。これは190cm、100kgの人と同じプレーをスクールで教えていることになる。ラグビーの基本はパス。体重制を導入することで日本の風土にあった独特のラグビーが生まれるのではないか」。このシンポジウムには、上田昭夫さんや宿澤広朗さんも参加していて論戦になった。上田さんや宿澤さんは自身が小さいながらも工夫して大きな選手と戦ってきたタイプなので、そこがラグビーの面白さであり、魅力であるという論調になる。市口さんは、体格差でなかなか勝つのが難しいチームを指導しているので、その実感から語る。

 話は平行線だったし、反対意見も納得できる。でも僕は、無差別級と85kg未満級の両方が存在するのなら、それは面白いと思っている。新しい戦い方や、異常に走り回る選手が生まれそうな気がするのだ。85kg未満の日本代表を作ったら、けっこう走り回るFWが編成できそうだ。小さな選手の夢も膨らむかもしれない。85kg未満同士でイングランドあたりを倒して、「君たちの優位性は体重だけだ」と言いたい気もする。逆に負けたら、体格差は言い訳にならなくなるけど、それも、コーチングの腕が試されて、面白いんじゃないかな。」



7.部員との交流


 「タラッポが採れた」「イワナが釣れた」「キノコが採れた」「鮭が揚がった」「漬けもが漬かった」。その届け物で、釜石の我が家、いや今も家には東北からのご馳走にあふれている。「監督、今度俺、結婚するので、仲人をお願いしますよ」と指導して年を経たある日、学生から声が掛かる。人情味あふれる釜石から30年ぶりに帰ってきた京都大学ラグビー部でも素晴らしい出会いがあった。それから13年間、一人勝手なラグビー理屈を振り回して、たくさんの仲間を作ってきた。学生と顔を合わせることを最優先に、 怒り、怒鳴り、笑い、からかい、泣かれ、告げ口を聞き、自己主張され、夜遅くまで飲む等々釜石以上に日本本来の姿の「優しさ」を味わった13年であった。


1)部員の部屋でのお泊まり


 「全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会」は、毎年正月に名古屋の瑞穂グランドで行われる。1年目の元旦に京都駅集合。そして、名古屋泊、翌日北海道大と対戦。結果は17-34。負けはしたが、中川主将を始めとする4回生は、学生らしく、キチッとした遠征を行ってくれた。余韻の残る追い出しコンパで深酔い。朝起きれば部員の部屋。こんな状態で13年は始まった

平成10年の正月、本田主将の時に2回目の出場となった。前回負けた北大には快勝するも、決勝戦で徳山大に力負け。しかし、指導第2期の最初の年で、漸く自分の思い通りのチーム作りが出来始めた頃で、本田主将を中心した素晴らしいチームが出来上がった記憶が残る。


2)猪鍋


 シーズン開始前、その年の方針を主将、副主将、主務に伝える会を我が家で行う習慣を2年目から始めた。プリントで今年の方針を伝えた後、私の小さな会社の社員が銃や罠で用意してくれた猪肉を囲む。シーズンはいつも、この会から始まった。


3)バーベキューのスタート


 新入部員が落ち着いた春のある時期にバーベキューを行うことも習慣づいて行った。当初はバーベキューセットを揃えることから始まり、買い出しは女子マネージャー、準備は怪我人、後片付けは全員で。OBに参加いただくこともあった。


4)遠征先での交流


 横浜の中華街、福岡の中洲、東京の本郷界隈等で、部員とささやかな会を開くのも、遠征の楽しみの一つであった。


5)監督最後の交流


 平成18年3月17日(土)に、大阪近辺だけでなく、東京・名古屋・岐阜・高知・九州から多くの教え子が京都に駆けつけてくれた。弱かったけれども、創意工夫にあふれたラグビーを共に出来た喜びを記したボールを記念に貰い、今も我が社の応接間を飾っている。翌日は、現役の追い出しコンパ。真っ暗な鴨川の河原で、花束と、短い指導期間であった現役から私の思いを託するに余りある決意にあふれた寄せ書きを貰い、最後は、夜空に向かって部歌を斉唱して、監督の役目は終了した。



8.おわりに


 「ピー」と、西日の傾いた、しかし、まだ明るさの残るグランドにノーサイドの笛がなった。明るいうれしそうな顔々、誰とはなく、ゆったりした動きで、部員全員がお互いに握手を求めている。調布の素晴らしい人工芝でのBチームの完璧な勝利を最後に私の京大ラグビー部の指導は終わった。

 平成17年12月23日東大戦。Aチームは第1試合。FWを前面に出す試合運びで34対19と快勝。Bチームは、41対14。その勝利の後の、Bチーム北剛臣ゲームキャプテンのコメント。


北剛臣(Bチームゲームキャプテン)

「春からすっかりBチームに定着してしまった私ですが、Bチームキャプテンを務めさせていただき幸せな一年でした。お世話になった監督、OBそして、マネージャー、部員のみんな、ありがとう。Bチームのみんなは下手くそだが気持ちをプレーに出す、気持ちいい奴らで、そいつらと一緒にプレーできて楽しかった。3回生以下のみんなが、来年以降の京大ラグビー部を背負っていける心身ともに強いプレーヤーになることを願っています。ラグビーってやっぱり楽しいものです。」


 京大ラグビー部を指導してきた最後に、「ラグビーってやっぱり楽しいものです」と、レギュラーになれずにつらい4年間を過ごしてきたBチームのリーダーからの言葉で、「指導は間違っていなかった」、そして、「京大ラグビー部はレギュラーだけでやってきたのではない」との思いがこみ上げてきた。その翌朝、辞任挨拶を行った。


 「皆様ご承知の通り、来年度からOB会規約(組織)が変わります。それに伴い私は13年間務めました監督を辞任致します。この間、私を支えて頂きました多くの皆様方に感謝申し上げます。

さて、この13年間の思い出は語り尽くせませんが、2つだけ紹介しておきたいと思います。この2つは、神鋼と私の関係しました釜石に関する技術です。13年前、私が京大に来ました時は神鋼のスペースに放り込むパスが全盛でした。特に関西では、各大学・社会人ともに同じような短いパスが流行でした。京大としては、そのパスと差別化をするため、どのチームよりも早く「スピンパス」を取り入れました。当初は難しい技術故にFWに教えるのが大変でしたが、今では、 京大にはなくてはならいない技術となっています。

 もう一つは、スクラムに関する技術です。私が釜石にいた時に、大きな右プロップをスクラムに起用するため、右プロップのオーバーハンドを採用しました。以来日本のスクラムは右プロップのオーバーハンドが主流となりました。京大に来て、大きな相手に対し、「低く組む」と言うテーマに答えを見いだせないまま、釜石の技術を引きずっていましたが、13年目にして、低く組むための解は、フッカーのオーバーハンド(右プロップのアンダーハンド)しかないことに漸くたどり着きました。今やラグビー先進国もフッカーのオーバーハンドが主流です。これらの2つの神鋼と釜石のいわば悪しき技術を学生とともに克服できたことは、私にとって幸せなことでした。



2003年の定例理事会に集まったOB。右から三番目が市口監督。

 最後になりましたが、OB誰もがちょっぴりほろ苦い思い出を持つ「京都大学ラグビー部」は、OB会規約(組織)がどう変わろうと永遠に不滅です。これからも「京都大学ラグビー部」のご支援を私から切にお願い申し上げます。ありがとうございました。








 平成17年12月24日(土)東大との定期戦にA・B共に快勝した翌朝の胴上げ。釜石時代、秩父宮ラグビー場で受けた昭和46年正月の胴上げ。平成10年、初めて東大に勝ったときの伊丹のグランドでの胴上げ。平成13年、釜石チームの胴上げから三十数年経った同じ秩父宮ラグビー場での胴上げ。そして、最後は平成17年調布グランドでの胴上げ。どの胴上げも、今も選手の手の感触が思い出されます。幸せなラグビー生活でした。」




2021年11月、オフィスにて。


S39年卒・S38年度主将 市口 順亮(京大ラグビー部九十年誌より再編集)


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