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080: 1971年シーズンを振り返る〈後編〉京大スタイルのラグビー(S47前田 眞孝/平岡 康行/湯谷 博/S48田代 芳孝/石田 徳治/S49清(旧姓吉川)史彦/S50水田 和彦)

 京大ラグビー部100周年を迎えるにあたって、昭和46年のシーズンを振り返ってみようと、当事者数名でZOOM座談会を開催した。

メンバーは、左上から、前田眞孝、平岡康行、湯谷博、左下、田代芳孝、清(旧姓吉川)史彦、水田和彦




スイングパス


 京大スタイルラグビーの一つの具体的な形が、星名の教えた「スイングパス」によるバックス攻撃である。

 スイングパスとは、パスする方向と反対側の脚に一旦重心を乗せ、前傾姿勢から振り子のように腕を振って投げるパスのことである。相手に正対するのでディフェンスを惹きつけることができ、昔の皮製ボールでも、スピンなしの縦長姿勢のままの、低くて長く伸びるパスを送ることができる。


スイングパス Rugby Coaching the New Zealand Way 1984 から

 典型的なスイングパスによる攻撃パターンとは、浅いラインを敷いたセンター陣が、相手を引きつけながらのステップとスイングパスで対面のディフェンスをずらし、ブレイクするというものだ。目的は浅いバックスラインからの攻撃で相手ディフェンスの裏に出ること。そのために一人一人が鋭く縦に走り、ステップを踏んで横に逃げ、さらに縦に方向を切り替えダッシュするなど、強い足腰の動きを要求される。目ではしっかり相手を捉えつつボールは常に両手でシュアーキャッチし、腕をタイミングよくスイングして長いパスを送る、という高いスキルを要求される。

 星名の指導の下、歴代のバックスラインが大学選手権の切符を手にするために磨いてきた技術であるが、バックスラインの技量の他にもフォワードからの早い球出しや、スクラムハーフの素早い動作と長いパスなど、成功するためには様々な条件が揃う必要がある。


 「理論的には可能でも実践は無理」というのを星名は認めなかった。「実践できない理論などない。理論が正しければ必ず実践できる」というのが星名の信条であり、理屈で考えて出来ることは、実践できるまで繰り返し練習して理屈どおりの成果を挙げてほしい、というのが教育者としての星名のスタンスであった。


▼「星名秦の遺産①スイングパスの威力とは」動画はこちら



プラットフォームをドライブせよ


 その点はフォワードの指導にも現れていた。京大のフォワードの役割はバックスへの生きたボールの供給である、という星名の示すコンセプトはチーム全員に共有され、役割分担の指針となっていた。攻撃の起点となる「プラットフォームをドライブせよ」というのが生きたボールを出すための要諦だ。

スクラムは、8人で正しい位置に足を置き、背中を伸ばした力学的に無駄のない姿勢で、押しの最大トルクを確保する。ボールインの瞬間に全員がワンプッシュし、フッカーのフッキングによってボールは左45度の線上に転がり出る。それをスクラムハーフが素早くピックアップし、ダイビングパスでスタンドオフに長いパスを送る。

 1971年シーズンのスクラムハーフは4回生の大喜多富美郎。「トーピード(魚雷)パス」と呼ばれたスピンをかけたパスを、来日したカナダの高校選抜チームが駆使していたのを見ていち早くマスターし、星名の要求に応じて距離の長いパスをスタンドオフに供給していた。こうした要素が揃って「生きたボール」が供給できれば、バックスが自在の動きで相手のディフェンスラインの裏側に出ることができる。


1972年1月1日大学選手権 京大対早稲田大戦。


 星名は相手ボールのスクラムで、右側から投入されるボールを獲得するという戦術を提案していた。スクラムで相手が投入した際にフッカーが右足を出してボールを止め、それをプロップの3番が右足でボールを掻き、後方に送る。スクラムから相手ボールを獲得することができれば、相手は深いライン。味方は浅いラインから理想的な攻撃が可能になる。これなどもルールを熟知し、ラグビーはイコールコンディッションからの勝負だという星名の柔軟な戦略発想からの提案だった。しかし、実現することは途方もなく難しいと思われた。


▼「星名秦の遺産②ダイレクトフッキングの可能性とは」動画はこちら




星名ラグビーの応用と修正


 スイングパスで外に展開していくライン攻撃は難しい技術であるだけに、失敗するリスクも大きく、実際には技量に応じたリスクの少ない戦略戦術へとシフトしていく。1971年シーズンで現実にバックスの得点力を産んだのは、典型的なスイングパス戦法というより、スイングパスの技法をエッセンスとしつつ、シザースやフルバック、ウイングのライン参加などを交えて相手の防御ラインを突破する多彩なサインプレーであった。

星名の指導も一方的に戦略を授けるのではなく、外国の文献や実施例を踏まえた攻略法を示すが、実際のプレーの選択は選手に任せるというやり方であり、1971年シーズンも試行錯誤の中から当時のメンバーに適した京大のスタイルが生まれていた。


「縦十字」というフォーメーションがある。通常は浅いラインを敷く京大のバックスであるが、中央付近のスクラムからの攻撃を、スタンドオフやセンターが、縦の一直線上に並んで、相手のディフェンスとの距離を取り左右どちらのサイドに攻めるか分からないようにして相手を撹乱するサインプレーである。星名が提案したこの縦十字を1971年シーズンのメンバーはチーム事情に合わせて修正し、右オープンの展開ができるスクラムからの攻撃に応用することにした。

 相手陣内左側の味方ボールのスクラムで、バックスは深いラインを敷く。スクラムへボールが投入されるとバックスは前進して浅いラインに切り替える。そして、スクラムハーフ大喜多から、スタンドオフ清、左センター前田へとパスが渡ると、前田がボールを持って外に走って右センター湯谷とクロスする。前田はパスの動作をするがボールを持ったまま横に走り、縦に方向を変え、相手ディフェンスを引きつけて、更に縦に走り込むフルバック水田へとパスし、水田がブレイク、最後はウイング三浦がフィニッシュする。

 両センターがクロスする際、パスダミーでどちらがボールを持ったか相手にわからないようにするところがミソである。両センターの動きに相手が翻弄され、フルバックがノーマークになる。



 前田は、この「DSD」と名付けられたサインプレーが、1971年シーズンの関西リーグ3位を争った近畿大学との試合で見事に決まったことを覚えている。この試合、前半は0対10でリードされていたが、後半10対14と4点差にせまったところで、乾坤一擲の「DSD」を仕掛けた。これが決まって、トライ。ゴールも成功し、終わってみれば16対14の僅差での逆転勝利。フォワードとバックスが一体となって努力を重ねた成果だった。

(そのシーズンからゴールは6点となっていた。)


昭和46年度関西Aリーグ勝敗表
昭和46年(1971年)9月16日の毎日新聞


「京大らしさ」


 相手の動きをよく見て、瞬時に状況判断し、臨機応変に対応せよというのも星名ラグビーを貫く基本理念であった。そのためには個々人が多様なスキルを磨いておく必要がある。サインプレーには常に裏と表の2通りのパターンが用意され、相手ディフェンスの布陣を見て、あるいは相手の実際の動きに応じてAかBかが選択されるのである。繰り出されるサインは、フォワードも含めた全員に次に何が起こるかを予想させ、失敗した時のリスクへの対応を準備させるシグナルでもあった。

 そうしたことから、戦略の基本はセットプレーからの一次攻撃に置かれており、フォワードからの「生きたボール」を得たバックスがサインプレーを駆使してゲインラインを突破し、一気にトライまで持っていくというのが「京大らしいトライ」とされた。

「京大らしさ」というのは、「京大は何をしてくるか分からない」という定評にもつながっていた。前述のDSDをはじめとするバックスラインのサインプレーの他、相手がそれらを警戒していると見ればフォワードがスクラムサイドのアタックを仕掛ける。

キックについても逆サイドへのキック、バックスラインの裏への低い弾道のダイアゴナル(対角線)キックなど、相手が予想していないスペース、あるいは攻撃側の動きに応じて生じるスペースに蹴り込む。

 相手の意表を突き、先に動きだせるアドバンテージを利用して、そこに味方の力を集中することで先手を打つ作戦である。

 しかし、そういう作戦で得られるマージンを積み重ねても、それだけで関西Aリーグで勝ち進むことは難しい。試合で勝つためには、守りに回った時のディフェンス力や、試合終了まで戦えるスタミナが不可欠だ。

 そういうパワーゲームとしてのラグビーを指導したのが当時社会人チームのベスト4の常連だった三菱重工京都の現役を引退したばかりの只井喜信(京大1965年卒)であった。学生時代に星名の指導を受けた経験のある只井は「星名理論の翻訳係」と称しつつ、フォワードもバックスも決して当たり負け、押し負け、走り負けしないラグビーを指導した。

当時の夏合宿は涼しい菅平で、行われていたが、ゲームよりももっぱら走り込み、当たり、エイトのスクラムを延々と組む体力強化を第一目的とした合宿だった。1971年シーズンの夏合宿も只井コーチの指導の下で前田主将以下徹底したハードワークに取り組み、秋のシーズンに備えた。菅平から下界におりても2〜3週間はまともに走れないような疲労があったが、ここで養った体力がリーグ戦を勝ち進む原動力となった。

 その只井が1971年シーズン最終盤の慶応戦の時のエピソードを紹介している。「自分たちで考えてやれ」と突き放し、慶応戦に同行しなかった星名に、只井が勝利を見極めた後、秩父宮ラグビー場の日本協会事務所に走って、電話で「勝ちました」と報告した。その時の「おう、よかったなア」と喜んでいただいた声がまだ耳に残っている、という。(星名直子「星名秦の生涯」1981年)



エピローグ:星名ラグビーのその後


 星名が京大ラグビーを直接指導したのは、慶応戦勝利の翌年、1972年シーズンが最後となった。そのシーズンは、京大ラグビー部50周年の節目であり、星名は自ら50周年記念事業の実行委員長を務めた。リーグ戦は初戦の大阪体育大学に1勝したのみと勝利にめぐまれない年だったが、星名は68歳にして若葉マークをつけた車を運転して宇治に通い、最終戦となった霙降る秩父宮で引き分けた東大との定期戦まで見守った。


昭和47年(1972年)9月23日、宇治グラウンドで行われた創部50周年式典。現役、OBそろっての記念写真。
星名(68歳)にとって最終戦となった東大定期戦。


 星名がグラウンドを去った後の1973年シーズンは、清が主将を務め、4年間星名の薫陶を受けOBとなった田代もコーチとして参加して関西2位の成績を残した。

このシーズンも伝統的なスイングパスには拘らず、メンバーの力量に応じたパスやキック、サインプレーを駆使した攻撃で前に出るスタイルを更に進めた。ゴール前のスクラムからスクラムハーフ柴垣元太郎がボックスキックを蹴り、スタンドオフの清がダイレクトキャッチしてトライ、というような技も生まれた。2対1のような数的優位が成立すれば必ずトライまで持っていくスキル、すなわちボールもったプレーヤがディフェンスを引きつけてフラットなパスを放ち、フォロワーが縦にダッシュして相手の裏側に出る、というパスワークを全員がマスターするようにランニングコースやパス・レシーブのタイミングの練習を繰り返した。これらも星名から習得した京大スタイルの応用篇だった。                                                                                            

 更にその翌年の水田和彦が主将を務めた1974年シーズンも大学選手権出場を果たす。しかし、スイングパスやサインプレーなど、セットプレーからの1次攻撃で相手の裏に出るという「ハイスピードラグビー」のスタイルは次第に変容を遂げていたようだ。時代は2次攻撃、3次攻撃重視のラグビーに変わりつつあったのかもしれない。

1974年12月8日、大学選手権出場をかけて中京大と対戦。31-17で勝ち、第11回大学選手権出場を果たす(花園)

 時代は下がって2015年。ワールドカップで日本代表は南アフリカに歴史的な勝利を飾った。この結果はなんと言ってもエディー・ジョーンズ監督の指導力の賜物と言えるだろう。そのエディーさんは日本の大学ラグビーのさまざまな問題を指摘していた。例えば、ストレートラン。横流れのランニングコースではいくらパスを繋いでもブレークスルーはできない。こうした基礎的な点を改善しない限りインターナショナルなレベルには達しないと言っていた。

そこで思い出されるのが、星名秦の教えていたラグビーである。当時から星名はイギリスやニュージーランドの指導者たちが教えていたラグビーの原理原則を踏まえていたのだから、ラグビーの基本とするものに共通性があるのは当然かもしれない。2015年の南アとの試合の後半28分に日本が同点に追いついた五郎丸選手のトライも、ブレークスルーの仕掛けは星名ラグビーから生み出した前述の「DSD」によく似ている。

2015年W杯の日本対南アフリカ戦、いわゆるブライトンの奇跡の後半69分、同点に追いついた五郎丸のトライの軌跡。

 星名が追求したラグビーは、合理的に考えて、追求すべきものにチャレンジするというスタイルである。星名の選手起用法にもそのことが色濃く反映されていた。大学でラグビーを始めた者たちも星名の指導によってチームにとって重要な選手となって活躍した。

 要求される個々の技術、体力のハードルは高く、メンバーの連携となると更に難しさが増すが、理論を理解し、訓練を重ねれば実現できるはずのラグビーがそこにあった。甚だ未完成ではあったが、「合理的に考え、相手をリスペクトし、努力せよ」、そういう星名流のラグビー精神に感化された結果が1971年シーズンの成果に繋がったのかもしれない。

星名は、「うまくいかなかったことは考えなくてもよい。これをやるということに集中しなさい」と教えた。うまくいくように考えることは楽しいことだが、努力してそれが実現できればもっと楽しいではないか、と言っていたのだろう。

 時代とともに、ルールも変わり、道具も変わり、プレースタイルも変化した。しかし、半世紀経っても変わっていないラグビーの真髄がそこにあるような気がする。


(文責:田代 芳孝)


「1971年シーズンを振り返る」のコンテンツ制作チーム

S47 前田 眞孝/平岡 康行/湯谷 博/S48田代 芳孝/石田 徳治/S49清(旧姓吉川)史彦/S50 水田 和彦

(2021年12月21日ZOOMにて)


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