top of page

096: 京大ラグビー、7つの教訓 (S23 清水 祥一)

※記事掲載にトラブルがあったので、再掲いたします。


前回配信したNHKアーカイブスの戦後の定期戦映像にFBとして出場していた清水祥一(S23卒、2013年逝去)が終戦直後の京大ラグビーについて投稿している。 90年誌より再編集してお届けする。  私は、昭和16年(1941年)4月に京都一中のラグビー部に入部し、昭和18年に三高、昭和20年に京大に入学しましたが、昭和23年3月卒業まで一貫してラグビー部に在籍しましたから、正に戦中戦後のラグビーを体験した一人です。この3つの母校は、ラグビー界では名門中の名門であり、そのお蔭で、日本のラグビー界にとって忘れられない多くの大先輩にお会いし、お教えを受けることができました。65年以上も前のことであり、記憶もあやしく、また、得点の数え方を始めルールも作戦も変わってきており、今後の京大ラグビーのお役に立つかどうかは疑問ですが、昭和34年には堀尾正雄部長のもとで副部長も勤めたこともあり、先輩から教わった京大ラグビーの理念や戦術などを書き残しておく責任もあると思いまして、拙文をしたためることにしました。(敬称は略します)  私の京大時代で特筆しておきたいのは、第一に、戦後あらゆるスポーツの中で初めて開かれた試合に参加できたことです。昭和20年9月23日に農学部のグラウンドで、関西ラグビー倶楽部と全三高の対戦があり、全三高は、現役5人に京大と東大に進学していた卒業生10人が加わってチームを構成しました。この試合は、敗戦で絶望感に包まれていた世間に大きな刺激を与え、他のスポーツの復興を促進した記念すべき試合となりました。全日本級の往年の名選手を擁した関西ラグビー倶楽部が勝利しましたが、全三高の善戦が讃えられました。  第二は、昭和21年度に、和智主将のもとで慶応、早稲田、明治、東大の関東勢に全勝したことです。関西では同志社に圧勝しましたが、残念ながら関学には惜敗し、立命館とは引分けたため全国制覇とはなりませんでした。そもそもラグビーは、先に創部したチームに、後から創部したチームが試合させて欲しいと申し込む対抗戦でしたから、リーグ戦のように総当たりではなく、順位を決める習慣はなかったのですが、後には関西第三位が関東軍を総なめと書かれたことがありました。

昭和20年(1945年)12月2日、同志社と戦後復活第1戦(京大グラウンド)を前に、両軍チーム集合写真。中央は林藤三郎主審、その右に高橋主将。
昭和21年(1946年)12月25日の対東大戦。16-8で京大勝利。清水はFBで出場。
昭和22年(1947年)1月5日、京大が明治を13年ぶりに破って関東勢に完勝。

 戦中戦後の最大の特徴というか関心事は、何といっても食べ物の確保でした。飽食の現代からは想像を絶する食糧難でしたからスポーツどころではなかったのです。しかし、このことを詳述しても今では役立たないと思われますので、ごく簡単に述べるに留めます。「食べるものもないのに、ようラグビーなどやれるね」とよくいわれ、「武士は食わねど高楊枝ですよ」とやせ我慢してみせましたが、実態は凄まじいもので、あらゆる手段を尽くして食べ物を求めました。進々堂でパンが売り出されると聞くと長蛇の列に並びましたが、買えたのは芋の茎を固めたようなものでした。ありがたいことに悪い(?)先輩がヤミ米などを入手して、試合に勝った翌日あるいは次の試合の前日に、一軍には「銀飯ですき焼」を御馳走してくださいました。これが好戦績を挙げられた最大の要因かもしれません。試合に出られなかった部員は、重湯のようなお粥に梅干しであったため、銀飯にありつきたいと練習に熱が入ったものでした。近藤ミルクホールや「ミドリ」など町の食堂のおっさんや娘さんも下宿のおばさんたちも何故かラグビー部員には大奉仕をしてくださいました。戦時中は野球や庭球など他のスポーツは部活動停止になりましたが、海軍兵学校の校技であったラグビーだけは、闘球部という名称で存続できましたので、ラグビーファンが多かったのかもしれません。  「戦時中もラグビーの火は消してはならない」と言い続けられた三高の山本修二先生の情熱に応えて、空き腹を抱えながら練習を続けました。三高グラウンドは芋畑になったため空きグラウンドを求めて転々としましたが、とうとう勤労動員でバラバラになってしまいました。それでも、動員先に楕円球を持ち込み個人個人で体力や技術の低下防止に努めているうちに京大に入りました。大喜びで、番人ともいうべき氏江さんが手入れされていた農学部のグラウンドに馳せ参じましたが、人数が少なく練習しても試合はできない日々を送りました。ところが、戦地から復員してこられた先輩が続々と加わり、入学年度と学年は一致せず、いわば混成チームの感を呈しましたが、ラグビーをしたいという執念にも近い情熱に満ちた猛者たちを纏めて結束のよいチームにされたのは、高橋キャプテンの人格と情熱でした。欠田マネージャーの尽力も忘れられません。ラグビー好き仲間の地道な練習が結実した現れが、前述の関東総なめの快挙です。  戦後の言葉を昭和30年代まで延長させていただくと、巌 栄一ヘッドコーチ(監督)のもとに久保田淳一、白山(堀江)邦四郎、田村哲也、龍村 元をコーチとする体制をとり、暫く低迷していたチームの強化がはかられました。続いて、星名 泰同志社大学工学部長が、同志社大学ラグビーの強化が進んだので、そのライバルになるよう母校京大のラグビー部の強化に尽くしたいと考えられ、まずコーチとして、実質的には巌ヘッドコーチの代わりをされました。しかし、工学部長という要職であるから、頻繁とグラウンドに迎えることはできないと思われたので、私が副部長という名目で補佐することとなりました。ところが、星名先生は一日も休まず、グラウンドに入り、手取り足取りともいえる実践的指導をされていました。翌年からは監督として、京大チームに相応しい戦略・戦術を考案され、これを選手に徹底的に会得させ、後に星名イズムや星名ラグビーなどの名で呼ばれる独特のラグビーを生み出されました。先生の情熱に心底から感動し、その哲学の一端を直接に学び得たことは、誠に幸運でした。この時の主将が和田文男(現日本ラグビー協会副会長)で、三回生の三好郁朗、二回生の米良章生、一回生の市口順亮が、後にいずれも監督になっておられるのは偶然ではないと思います。この他にも多くの先輩、同輩、後輩から極めて多くの教訓を教わりましたが、私なりに重要と思う7項目を挙げさせていただきます。 ⑴ 紳士的であれ  「ラグビーは紳士のスポーツであり、フェアープレーに徹しなければならない」とは、先輩たちから最も多く聞かされた言葉です。かつては、シン・ビンなどのような制度はなかったが、ノーボールタックルをしたプレーヤーに即刻退場を命じたレフリーもおられました。  最も印象に残っているのは、ルーススクラム(現在のラック)で倒れているプレーヤーの腹部を故意に踏みつけたAプレーヤーに対し永久追放を宣言されたレフリーが、試合後にBプレーヤーが「踏んだのは私である」と申し出たため、両プレーヤーとも追放にせず、みずからが誤審の責任をとって生涯レフリーをされなかったことです。 ⑵ 瞬発力と耐久力の強化をはかれ  内藤先輩は、俊足で100mの日本記録を持たれた時もあったと聞いていますが、私たちには「100mが速くなくてもよい。5mをトップスピードで走る瞬発力をつければ、どんな俊足の相手でもタックルでき、また相手のタックルを外すことができる」と教えられました。一方、「ラグビーには延長戦はない。40分ハーフなら、前後半で80分の間を集中してプレーできるスタミナも必要である。ノーサイドになった時には、その場で倒れるくらい全エネルギーを使い果たしているので、延長することはないのだ」といわれました。 私たちの時代は,メンバー入替えはなかったので、怪我で退場しても補充できず、12人と13人になった試合を覚えています。 ⑶ チームは一丸となれ  高橋紀郎主将からは「個人的功名心は捨てよ。スタンド・プレーはチームワークを破壊する。“All for one. One for all.”がラグビーの神髄である」と教わりました。 京都一中、三高、京大の後輩である高野瀬宏が主将になられた時に「良いチームワークは個の尊重という基盤の上に築かれるという信条でやってゆきたい」と私に語られたので、大賛成だと激励したことを覚えています。 ⑷ 効率的練習で臨機応変能力をつけよ  和智恒雄主将は、「ラグビーには頑健な身体力と強靭な精神力が必要であるが、知的スポーツでもある。常に戦局の全貌を動的に把握していることが勝利につながる。臨機応変的に最善の行動をとる能力は、だらだらした練習では身に付かない。効率的な練習によってのみ獲得できる」と言われ、みずから実践されました。その1例として、バックローセンターの和智主将が、突然に右ウイングの後方へ走り出されて唖然としましたが,その直後、相手の左センターがキックしたボールを走りながら見事にキャッチされたことがありました。試合後に、その理由を問うたところ、「あの戦況では、必ず、右ウイングの後方を目がけてキックしてくると判断したのだ」と答えられました。ワンチ主将時代の練習は、比較的短時間でしたが、主として実戦的なチーム連携にあてられ、個人的な能力向上は自主性にまかされていたと思います。 ⑸ ボールを生かす工夫を  田村忠一主将は、「ボール を無駄に相手に渡さぬよう心掛けよ。めくらパスはするな。めくらキックはするな。ボールを生かす工夫の連続がトライを生む」と力説されました。 たむちゅうの言葉で記憶に焼き付いているのは「いかにエキサイトした試合でも、ノーサイドになれば、お互いの健闘を称え合う。これがラグビーの伝統であり、ライバルとは、敵(かたき)ではなく、お互いの能力を高め合う切磋琢磨の仲間なのだ」です。 ⑹ 一発で倒すタックルを  多くの先輩が「攻撃は最大の防御である」といわれましたが、逆に「徹底した防御から有効な攻撃のチャンスが生まれる」とか「タックルは、防御手段ではあるが、攻撃手段でもある」、「ラグビーの勝敗はタックルにかかっている」などと教えられた先輩もおられました。「タックルの秘訣は躊躇しないこと。一瞬の躊躇は怪我のもと」と教えてくださったのは、田村哲也先輩。最近は、ルールが変わったせいか、ドリブルは見られなくなりましたが、ドリブルの阻止に飛び込むセイビングのほうが怖く、事実、一瞬躊躇してセイビングしたため負傷した苦い覚えがあります。 ⑺ レフリーに絶対服従、キャプテンには全面信頼  「レフリーは、広いグランドを走り回っている30人のプレーヤーの全挙動を1人で見ているのであるから、誤審は起こりうる。しかし、その判定には絶対服従するのがラガーマンの資格である。また、監督やコーチが練習の時に指導されることは当然であるが、いったん試合が始まれば、キャプテンが全権・全責任を持つ。これが他のスポーツと異なるラグビーの特徴である」と教えて頂いたのは、別所先輩です。  このような教訓は、ラグビーだけでなく、私の人生を貫く教訓となりました。卒業してゆく学生諸君に乞われて私が色紙に書いた「人間性尊重」、「創造の喜びを持ち続けよう」、「基本に忠実、変化に適応」という3つの言葉は、主にラグビーから学んだものといえます。  皆さんに贈りたい言葉は「私もラグビーをやって良かった」の一語です。 S23年卒 清水 祥一(京大ラグビー部九十年史より再編集)

昭和21年(1946年)11月17日の対立命大戦(西宮球技場)。後半京大陣25ヤード付近で、立命の突進を新村がタックルで阻む。右端は森本至郎(敬称略)。
昭和21年(1946年)12月1日、雨中の対同志社戦に快勝して喜びのフィフティーン。盾を手にするのは和智主将。その後ろに内藤資忠コーチ(西宮球技場で)


※このコンテンツへの追加情報・コメントなどは、KIU R.F.C. facebookでもお願いいたします。


閲覧数:275回0件のコメント
bottom of page