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101: 香山蕃の一人娘、藤沢由紀子さんに聞く(S55 真田 正明)

更新日:2022年11月17日




藤沢由紀子さん

「医者の後継ぎとして厳しく育てられたそうです」
「(粟田口にある)青蓮院の裏に『療病院跡』という石柱があります。私の祖母は半井(なからい)の家から嫁ぎました。曾祖父の半井のおじいさんは青蓮院の裏の一郭で赤ひげ先生のようなことをされていたそうです。父と京都に帰ったおり、御池通の土塀を指して、『半井の家の土塀だ』と言っていたことがあります」

香山蕃の父、晋次郎は祇園にあった東山病院の副院長だった。東山病院は母方の伯父、半井澄(さやか)が開いた。澄は、京都府立医科大学附属病院の前身である京都療病院初代院長、京都医学校校長も務め、その後東山病院を開いた。澄の父、半井仲庵は越前福井藩の藩医で、越前での西洋医学の基礎をつくったといわれる。



「(父は7歳のころ)川端丸太町の熊野神社そばに引っ越しました」

「八坂神社下の彌栄校は舞子はんがたくさんいる学校で、授業中でもお座敷がかかって来るということであったから、その小学校に通わすことは早熟を来すと思ったのであろう。然し一中三高へ5分の距離に移ったということは一中三高へ入学さす前提であった」(「浪人四年の効用」=文藝春秋昭和32年5月号=香山蕃)



 「小3のころに父親を亡くし、その次か次の年、 岡山の儒教の先生の所へ行くようにと言われたそうです。行きたくなかったのですが、何でも買ってあげるという言葉に乗せられて、鉄砲(空気銃)、カメラ、野球のグローブ、釣り竿と全部買ってもらって行ったそうです。先生はあごの白髭をさわりながら、朝から何にもしゃべらず本を読んでいるだけだったといいます。それで、鉄砲で雀を撃ったりして遊んでいたそうです。外で遊んでいたら遠くに汽車が見え、母のところに帰りたいと、走りながらぽろぽろ泣いていたということを申しておりました」

 「男の子を母親の手で育てると、とかく甘やかすことになるということから、お袋の私淑していた明治維新の志士で刈谷無陰という儒者と相談して、その友人で岡山の住人大村益太郎という人の所へ預けられることになった。お城の中の小学校へ1年間通った。1年目の夏休みに家へ帰って暫くするうち、お袋にもう岡山へ帰らなくてもよいと申し渡された時は嬉しかった。9月から一中の先生で荒神口で塾を開いていた河原林先生のところに通うことになり、入学準備に夢中になった。僕の人生で真剣に勉強したのはこの時を頂点としたかもしれない」(前掲書)



 「一生懸命勉強して、一中(現洛北高校)に3番で入ったと言っていました。やればできるということを申しておりました」

 

入学試験は上乗、クラスの3番で一中へ入学した。この成績が絶後でもあった」(前掲書)



 「(一中時代に初めて三高と慶応のラグビーを見たときは)陸上や、柔道やすべてのスポーツがまざったような、こんな楽しそうなものはないと言っておりました」
 「三高(後の京大教養部)に入るのにすごく四苦八苦して、3年目の浪人の時、各科目の先生についたらしいんです。けれど受験の前日、全然眠れず、打ちひしがれて次の年になったとか。三高に入ると『なんだ1年生か。もっと上級生かと思った』などと言われたそうです」

 「5年生になった時、校長の許しを得てチームを作ったのが運のつきでもあった。毎日三高へチームを引きつれて練習に行っているから受験勉強など忘れてしまっていた。八つの高等学校のうち、ラグビーは三高だけしかなかったから、尚更三高入学に全力を注いだことは事実である。試験科目の殆ど全部に亘って三高教授の個人教育を、僕は受けていた。これほど立派な先生に就いていながら、浪人生活4年とはあきれたものだと思うだろうが、僕は家にいては勉強ができないという理由から、岡崎の静かな處へ下宿した。そこで京大の柔道の大将安達士門という六高5年京大8年という仁と起居を共にしたことが浪人生活を確実にした。この兄貴分の力を借りて天狗倶楽部なるラグビーチームを作ったのである。京大の柔道マンを主体として、野球であろうが、剣道であろうが、高等学校時代の選手たちを集め、浪人のぼくがコーチをするのである。そこへ京大の三高ラグビー出身者も集まって、一中、三高、神戸外人などと試合をやりだした」(前掲書) 



「神戸外人クラブのエブラハムという貿易商の方と特にお親しくしていて、うちにも何度も来られました。ダンディで素敵な方で、『ゆきちゃん、ゆきちゃん』と可愛がってくださいました。塩屋(神戸市垂水区)の海沿いにすてきな家があって、キャメルのコートを着て奥様と腕を組まれてトアロードを歩いていらっしゃいました」

 エブラハムは兄弟でHBを組んでいたという。由紀子さんの話がどちらを指すかは不明。「私たちが神戸外人クラブにゲームに行くたびに感銘したことは、どんな激しいゲームをやってもタイムアップの笛がなれば、手を握り合って健闘を祝し合う美しい友情であった。シャワーをともに浴び、ビールとサンドイッチのレセプションで楽しくお互いのプレーや生活を話し合い、歌を合唱した。チームの一員だったエブラハム兄弟の家に私たちはよく招かれ、ケンブリッジやオックスフォードなどのカレッジライフや彼らが学んだロンドン郊外ダルウィッチのパブリックスクールの話を聞いたのも、楽しい思い出の一つ」(「スポーツ十話」毎日新聞)




 「東大には三高時代の友人で門脇さん(後のソ連大使)、吉岡さん(後のバチカン大使)に両脇を抱えていただきながら入ったと言っていました。助けていただいて東京に入ったということです」

「(三高に)入学してしまえばパー(既定の3年)で卒業したというものの、振り返って見ると、容易なことではなかった。何と言っても昼間はグラウンド、夜は夜でのコースがあるから、試験前ともなれば大騒ぎ。然しクラスは親切者揃いで僕のために、何人かの担当者が時間割を作ってくれ、僕は炬燵に入ったまま、出そうな處の講義を聞いていれば、次々に講師は交代していく」(「浪人四年の効用」)

 門脇は門脇季光氏。外務事務次官を務め、日ソ国交回復後の1957年に駐ソ連全権大使、ルーマニア、イタリアの大使を務めて退官。ホテルニューオオタニの社長や会長を務めた。吉岡氏はほかにもカンボジア大使などを務めたようだが、詳細不明。

 「もっとも昔は、いまは狭き門の東大法学部にも定員500人のうち50人は抽選入学という手があって、私のようにスポーツにうつつをぬかしていたものも裏口からはいるすべがあった」(「スポーツ十話」)



「秩父宮様が『英国に一緒に行かないか』とおっしゃって、祖母は借家を売って渡航費を作ったそうです。ハルクインでラグビーをした話は聞きましたが、学校へ行った話は聞いておりません。留学というよりラグビー遊学でございます」

 「大正14年、すなわち1925年のシーズンを英吉利で、ラグビーの主なる競技はほとんど見逃さずに暮らしました。非常な手数を経て英吉利の最も有名な俱楽部であるハルクインに入ることが出来て、Aチームとして二、三のパブリック・スクールと試合をする機会を得ました。又当時御滞在中の秩父宮殿下のお伴をして、主なる倶楽部の試合は勿論、有名なオックスフォード対ケンブリッヂのヴァーシティー・マッチを始めとして、インターナショナルスを決定するイングランド対レストの試合も見ました」(「ラグビー・フットボール」)

1952年、オックスフォード大学が来日したときの写真。左から3人目が香山蕃。中央は皇太子時代の上皇さま。香山がお付きの方より伺ったお話として由紀子さんに伝えたところによると、上皇さまは後にエリザベス女王の戴冠式に渡英された際に、オックスフォードの学生と再会した。まだ敵対国の名残りが感じられるなか、オックスフォードのメンバーが少人数で歓迎会を開いてくれたという。


「本当にイギリスにあこがれていたんでしょうね。朝食の時からネクタイをして、ナイフとフォークでベーコンエッグとトーストなんです。ステテコ姿なんて見たことがない。京大の監督をしていた時は、学生を英国式の食事に連れて行ったり、シュークリームの食べ方を教えたりしたそうです」
「大森の自宅では、小さな庭ですが、そこにイギリスの国花のバラをたくさん植えておりました。バラの咲く頃には、ラグビー関係者など親しい方をお招きして一緒にたのしんでおりました」
 

「麻雀が好きで大森の家は『香山雀荘』なんて言われておりました。楠目亮さん(S16)、石黒孝次郎さん(同)、鈴木素雄さん(S15)らがよく来られていました。でも父は負けてばっかりですが本当に楽しそうにしておりました。谷村敬介さん(T12)もよく来られたけど、麻雀はされませんでした」
「谷村さんは保険会社でしょ。父はいつも朝風呂に入るんですけど、ある朝斜め向かいのうちが火事になった。うちは火災保険に入ってなかったので、谷村さんに電話して『うちの前が家事なんだけど、火災保険入ってないんだ。頼むよ』と入れてもらったとか」

「終戦直後に発疹チフスになったことがありました。東京都の東(あずま)知事の弟さん、東(あずま)俊郎さんが順天堂大学病院にいて、すぐに入院することになりました。大阪の日赤にいた京大OBの木崎国嘉さんが『命だけは預かった』と、GHQからたくさんペニシリンをもらって駆けつけてくれました。薬はたくさんあったので、順天堂で他の患者さんにも差し上げることができ、父は以後、木崎さんに『頭があがらない』と言っておりました」

 「終戦になった翌年、香山が発疹チフスで生死の境をさまよっていたとき、思いもかけず宮様からお見舞いの地卵がとどけられた。宮様の療養中の食糧不足をおぎなうため、妃殿下が養鶏をされた貴重品をとどけてくださったもので、香山は思わず落涙したという。香山は幸い発疹チフスの権威で知られていた京大ラグビーOBの木崎国嘉博士が、徴用先の米軍から当時の貴重品ペニシリンをもらって上京してくれたおかげで、一命をとりとめることができた」(「近代ラグビー百年」池口康雄著)



「本当に京都が好きで、毎年墓参りに一緒に行っておりました。京都に帰ると、まずいづうの鯖寿司を食べに行くのですが、その裏にある備前松という置き屋さんも必ず訪ねました。女将さんが出てきて「まあ、お嬢さんですか」と言われました。(東京でも)新橋の芸者さんに送ってもらうこともよくあって、母が接待したりしておりました。亡くなった時に芸者さんが『香山さんは本当にきれいな方でした』って。どういうことかと思いましたら、母は『お金がなかったからでしょ!』と笑っておりました」

「カナダ遠征のときのフェアプレイの話が教科書に載って、小学校のときに先生が『お父さまが出てらっしゃるよ』と言って、下さいました」


日本代表のカナダ遠征時に相手チームから贈られたブレザー

 東京書籍の「新編 新しい国語 中学1年上」の「スポーツの心」の中に、香山監督が日本代表を引き連れて、初の海外遠征としてカナダに行ったときの話が載っている。最終のブリティッシュコロンビア州代表戦で、開始早々日本側の一人がけがで退場したところ、カナダ側も同じポジションの選手を引っ込めた。代わりを出せというティレット監督の申し出を香山は断ったが、最終的に折れて補欠を出した。試合は3-3の引き分けだった。スポーツマンシップについて学ぶという教材。

 「数年前八幡製鉄のカナダ遠征に同行し私は三十年ぶりにチレット監督に会ってその教科書をみやげに差し出したところ、彼は〝そんなことが教科書になるなんておかしい。私は当然のことをしただけなのに〟と不思議そうな顔をしていた」(「スポーツ十話」)




「秩父宮ラグビー場をつくるときには戦災保険を全部出して。ただでさえお金がない時代に、母は大変だったそうです。でもラグビー仲間がみなさんで、できるだけのことをされたんで、いまの秩父宮ラグビー場があります」

 「問題は建設資金をどうするかであった。見積もりを頼んだ鹿島組は建設費百五十万円、しかしとりあえず三十万円つくってくれればさっそく着工してもいいという好条件を出してくれた。当時は預金封鎖で現金調達に最悪の時期であったが、集まった早慶明立東の各大学OBが一週間で、五万円ずつ集め、私の戦災火災保険金五万円を加えやっと三十万円を調達することができた。あるものはカメラ、またあるものは家の絨毯を売った。工事が始まったある日、雨の中を秩父宮様が来られ、病身をかえりみずゴム長グツをはかれて、はげまして下された。鹿島組の関係者に〝ラグビー協会は貧乏だからよろしくたのむ〟と頭を下げられたとき、私は流れる涙をこらえることができなかった」(前掲書)


高松宮ご夫妻と香山蕃氏。

セブンアサイドの大会で抽選をする由紀子さん。


「父が脳血栓で倒れて順天堂に入院した際、私の友達が見舞いに来てくれた時に、父は上機嫌でみんなに母との話をはじめました」
「父は48歳のときに母と結婚しました。母の兄のお友達の紹介だそうです。実は宮さまとイギリスに行く船の中で素敵な外交官の娘さんと出会ったんだけど、そのお父様に『ラグビーばかりしている男はいかん』と言われたとか。その方は名家にお嫁に行かれ、お幸せではなかったと。父は『ぼくと結婚していればもっと幸せになったのに』と言っておりました。『そしたら私生まれていなかったのじゃないの』と話し、みんなで大笑いいたしました」

「とにかく『一緒に行こう、行こう』といろんなところに連れていかされました。お友達に、結婚するときにもお父様が一緒にいらっしゃるのでは、と心配されました。父にはいやとは言えなかったので。ちょっと怖いところもあって、言葉遣いと行儀にはうるさかったですよ。遅いときの子供でしたから、できるだけ自分との思い出をたくさん残してくれようとしたのだと思い、今はたくさんのいい思い出としてありがたく思っています」


香山蕃氏と由紀子さん。


由紀子さんは1964年の東京オリンピックの際、コンパニオンを務めている。ある新聞のコラムを引用する。


東京オリンピックのコンパニオンで西ドイツIOC委員ダウメ氏付だった香山由紀子さん(22)が、そのマネジャーぶりを買われて8日羽田を発って西ドイツに行く。五輪当時ダウメ氏の秘書でテニス選手のシュレッツ姉妹の世話をするため。

シュレッツ姉妹はオリンピック後、全日本テニス選手権に出場、妹のヘルガ嬢は単に、姉妹で複にそれぞれ優勝したが、帰国後も香山さんの親切が忘れられず5日に1回は便りを送ってくる。その中で「この6月の全英選手権でぜひ勝ちたい。そのため4月中旬から欧州各地の大会に出て腕を磨く、ついては3ヵ月ほど日本のときと同じようにあなたの応援がほしい」と言ってきた。

由紀子さんのオヤジの香山蕃日本ラグビー協会会長は「行ってみたい」という一人娘の願いにポンと旅費を出した。ラグビーの選手には厳しい会長だが、やはり・・・・・・ねと、ラガー仲間の話の種となっている。


由紀子さんを中央に、左が白洲次郎、右後ろが香山蕃、左後ろに奥村竹之助(T15)。由紀子さんの後ろに母淑子さん。右には慶應OBで、第2代日本ラグビー協会長の田辺九万三


2022年7月26日

取材:夏山真也(S54/NO8)/真田正明(S55/PR)


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