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102: 【番外編】「戦時下のノーサイド」筆者、早坂 隆さんに聞く(S55 真田 正明)

更新日:2022年11月23日





―どうして京大ラグビー部を中心に書いてみようと思ったか


「最初は編集者からの提案だった。歴史を調べていくうちに、慶應から始まったラグビーが京都を中心に広がったことを知り、興味が湧いた。京大と東大の関係や、戦時中の非公式の定期戦の話しなどにも関心をひかれた。関係者もみなさん、協力的だった」



―取材に困難はあったか


「3年以上前から取材を始めたが、コロナ禍で一時対面で会えなくなって、刊行できるか心配した。高齢の関係者も多く、時間との戦いだった。」



―新しく出てきた話はあるか


「最後の方に書いた白水(しろうず=S19)さんの話し[1]はこれまであまり出ていない。白水さん自身が入市被爆の話など、あまりされていなかったが、今回息子さん2人や介護士さんらに話を聞いて、初めて活字にできた。石黒孝次郎(S16)さんの南方戦線での話は娘さんに聞いた。ご本人の手帳など資料もたくさんあった。戦時中に海軍の学校でラグビーをしていたことも、あまり知られていなかったのではないか」



―ほかに印象に残った人や話は


「取材時94歳の堀敬二(S28)さんは、雨の中わざわざ駅まで来てくれた。香山蕃さんは娘さんに話をうかがった。星名秦(S3)さんの名前ぐらいは存じていたが、終戦後、満州からの日本人の引き揚げに苦労されたことを、今回掘り起こせてよかった。水田和彦(S50)会長には、宇治のグラウンドでいろいろ見せてもらった。市口順亮(S39)さんには『しっかり書いてくれ』と鼓舞され、飲みに連れて行ってもらった。百歳の台湾人の方[2]は、校了直前に存在がわかって電話で話が聞けた」



―戦時中のスポーツに関心を持たれている


「野球は敵性スポーツとして制限されたが、ラグビーは高い精神性と規範を守るところが評価され、戦時下でも禁止されなかった。戦時中にもいまと変わらないように青春はあった。文武両道で過ごしていたラガーマンの姿はいいなと思った。あと10年、5年でも取材にかかるのが早ければ、と思った。すでに当事者はいないが、それでもノンフィクションは書けるということを示したかった。周辺から取材してなんとか形にできた」



―ほかに発見したことは


「戦前のラグビーが非常に国際的だったことも、面白いなと思った。カナダに遠征したり、ニュージーランドやオーストラリアの学生代表が来たりしていた。京大も朝鮮や満州に遠征した」



―他校も取材をされた。カラーの違いはあるか


「東大、慶應などライバル校も取材した。慶応でさえ、資料が十分にそろっておらず苦労した。違いというよりむしろ、ラガーマンの共通点を感じた。一本筋があって、紳士な雰囲気がある。ラガーマン同士の横のつながりや、ラグビー愛も強い」



―コロナ禍で現役は苦労している


「若い人のいろんな活動が制限されるということは、戦時中ともつながるところがあるのではないか。京大はいまも文武両道で頑張っている。学生スポーツのあるべき姿だと思う」



著者、早坂隆さん。

▼早坂隆さんのプロフィール

1973年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。「昭和十七年の夏 幻の甲子園」でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。ほかに「昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝―戦時下で繋がれたタスキ」(中央公論新社)、「世界の日本人ジョーク集」(中公新書ラクレ)など著書多数。



戦時下のノーサイド(さくら舎) 京都帝国大学(現・京都大学)ラグビー部を主人公に、東大・慶大・早大・同志社大・明大などのライバル校の歩みも交え、戦前・戦中のラガーマンの軌跡をたどる。京大ラグビー部OBが70人近く登場する。







本文注釈 [1] 白水聖親 S19年卒。陸軍に入隊し広島に赴任。原爆投下の日は市外に出ていたが、救護活動のために2日後に入市、被爆。戦後、故郷の福岡に戻り、九州大学に入学しラグビー部にも入る。卒業後は福岡銀行に就職し、迷惑ラグビー倶楽部にも所属した。京大と九大の定期戦は「白水杯」と呼ばれる。 [2] 楊馥成(よう・ふくせい)日本名大井満。シンガポールとスマトラ島の間にある小島で、陸軍の倉庫長だった石黒孝次郎の部下。取材時100歳で高雄市在住。



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