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112: 【創成期編7】ラグビーの勃興と京大の全国制覇(S55 真田 正明)

 

昭和5年(1930年)新春、三年連続全国制覇を遂げたのを記念して制作したメダル。


 大正時代後半から昭和初期にかけて、日本全国にラグビーが広まり、人気が沸騰していく。その勢いと歩調を合わせるように京大は黄金期を迎えた。

 初の東大-京大戦が行われたのと同じ1922年、来日した英国皇太子が旧制三高対神戸外人の試合を観戦した。三高を卒業して京大に入学していた4人も参加し、後に京大の主力となる三高の選手たちも出場した。レフェリーは三高から京大を出た竹上四郎(1919年卒)。皇太子の案内役は京大ラグビー部創設者の谷村敬介(1922年卒)が務めた。

翌年から数年間の間に、大学では明治、立教、関西、法政、中央、北大などにラグビー部ができた。専門学校、旧制高校や中学校にも続々広がり、ラグビー人気が高まっていった。1923年5月に大阪で開かれた第6回極東オリンピックでは、エキシビションマッチとしてラグビーが採用された。慶応、早稲田、同志社、京大、大阪高商、関大が参加し、慶応が優勝した。京大は1回戦で、初対戦の同志社に敗れた。

同年12月には三高グラウンドで慶応と初対戦した。0-10で敗れたものの、邦人チームには負け知らずの慶応を驚かせた。年が明けて1924年1月の東大戦は、3度目にして初勝利を得た。この年、北白川にグラウンドが完成した。

関東ラグビー蹴球協会が同年にでき、翌年には西部ラグビー蹴球協会ができた。当時は同志社、京大、三高、慶応、早稲田、東大をビッグシックスと呼び、年度ごとのランキングの発表も始まった。全国で競技人口が増えるなか、京大はOBを中心に、毎日新聞とともに全国高専ラグビー大会を運営した。


1926年、香山蕃をコーチに招いたのをきっかけに、京大は黄金期へと歩み始める。香山のコーチ就任の経緯やその指導については、「051: 日本最古級のラグビー定期戦映像発掘・昭和4年京大-慶應戦」を参照いただきたい。


香山が指導した年、三高や同志社に勝ったものの、満を持した関東遠征は大正天皇の崩御で中止になった。翌1927年度、星名秦を主将とするチームが発足した。星名は、後に同志社や京大を指導し、日本ラグビー協会の競技規則制定委員長や技術委員長も務めた。その先見性のあるラグビー理論は「星名ラグビー」と呼ばれ、多くの指導者の模範となった。

星名 秦氏

 この年、京大は大型のFWと俊足のBKをそろえていた。特にCTBだった星名はオフシーズンの8月、上海の第8回極東オリンピックに出場し、五種競技で優勝している。工学部だった星名は昼休みに練習着に着替えて、その上から学生服を着て実験などをし、3時になると同時に農学部のグラウンドに走っていったという。

 関西では負けを知らなかった。同志社にドロップゴールを1本許しただけで、総得点477、失点4。旋風を巻き起こした勢いで関東遠征に出た。関東ではこの年、早稲田が慶応に初勝利し、早稲田、慶応、東大が3すくみの状態だった。

 年末の東大戦は22-0で圧勝。元旦、満員の神宮競技場で慶応を11-5と初めて破った。同志社、三高がなしえなかった慶応からの初勝利だった。

左)昭和3年1月1日、対慶應戦を前に両軍選手(神宮競技場)。右)左WTB進藤快走しトライ。



 同じ神宮競技場での7日の早大戦も、14-11で接戦を制した。後半残り10分、早大選手がノックオンしたボールが京大CTB宇野庄治(1930年卒)の両手に収まった。一瞬、両軍の選手の動きが止まったなか、宇野がゴール直下にトライした。「日本ラグビー史」はこれを「幻のごとく、いまなお瞼に浮かぶその日の情景」と記述している。

左)昭和3年1月7日、早稲田を14-11で破って全国制覇を成し遂げたフィフティーン(神宮競技場)。右)馬場武夫、右隅に見事なトライ。



 また毎日新聞などで長くラグビー記事を書いた池口康雄は、慶応戦と早大戦について「この二つのゲームは、ラグビーはかくあるべきだという見本であった。京大は香山の指導通り、スピードと技を駆使しクロスキック、ショートパントからエイトFWのルーズプレー、そしてほとんどがTBパスによるオープン攻撃による速攻、見事なトライで東京のファンを魅了した」と評している。



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