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117: 【創成期編9】 戦時下のラガーマンたち(S55 真田 正明)

 1940年ごろになると日中戦争が泥沼化し、ボールが配給制になるなどスポーツにも徐々に影響を与え始めた。翌年には米が配給制になった。その41年12月8日、真珠湾攻撃で日米が開戦。この年の3回生は12月で繰り上げ卒業となった。元旦恒例の慶応戦や5日の明治戦には出られなくなり、12月26日の東大戦を最後に、10人余りが出征した。



京大時代の石黒孝次郎氏(1939年)

 そのうちの一人が主将だった石黒孝次郎だ。渋沢栄一の曾孫で、戦後高級フランス料理店の経営や古美術商として名をはせ、関東ラグビー協会会長を務めた。3回生の春に徴兵検査を受け、甲種合格。42年1月に結婚したものの、2月には高射砲連隊に入営した。

 初年兵のあと陸軍経理学校を終了して、シンガポールの南方総軍野戦貨物廠に配属された。マレー半島のタイ・ビルマ国境のジャングルや、シンガポールとスマトラ島の間の小島に倉庫を建設する任務が与えられた。

 表向きの任務とは別に、英国軍からの押収品を華僑に売って食料に換えるという密貿易にも携わった。ある日、銀器を整理していて、純銀製の大トロフィーを見つけた。プレートを読むとスコットランド連隊のラグビー大会に王から下賜されたものだった。石黒は、売るのはもったいないと倉庫の奥にしまい、鍵をマレー人の村長に預けた。



陸軍時代の石黒孝次郎氏(1942年)

 敗戦後、日本軍の宿営地にいたところ、英軍司令部から呼び出された。監獄に入れられ、尋問された。「押収した銀器の中に特別なものはなかったか」と聞かれ、トロフィーの話をした。翌日、トロフィーを確認してきた将校とその上官から礼を言われ、昼食をご馳走になって解放されたという。

 その後、シンガポール沖の小島で捕虜生活をしていた時には、シンガポールの英軍情報部に成蹊高校時代の恩師がいることがわかった。英語の教師で、ロンドン大学でラグビーをしていた人物だった。出張の許可を得て再会し、「食糧不足で栄養失調者が増えている」と訴えると、大量の食糧が送られてきたという。石黒が日本に帰国できたのは46年7月だった。


 石黒たちが卒業した後、さらに修学期間は短くなり、若林四郎主将ら3回生は42年9月で卒業することになった。そのため4月末から6月上旬にかけての短期間に、少ない部員で関学、立命、東大、同志社、明大、早大との試合をこなした。前3試合は勝利したが、あとの3試合はいずれも大差で敗れた。


 秋からの主将は白尾輝高だった。高校を2年半で卒業した新入生数人が入ったものの、戦力低下は否めなかった。北白川にあった「みどり食堂」の支援で、米飯だけは十分に食べられたが、体力の低下も大きかった。白尾主将は台北帝大農林専門部から入った異色の経歴をもち、中学、高専時代はラグビーの花形選手だった。応召して海軍中尉となり、太平洋上の航空戦で戦死した。同期の梅谷三郎も海軍航空隊で戦死、奥村貢は終戦後にソ連に抑留されて病死した。



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