下鴨神社の南に広がる糺(ただす)の森は、緑深い樹木に囲まれて小川が走り、紀元前の植生を今に伝えるという。その中央を貫く参道に並行して、流鏑馬用の馬場がある。南北約300メートル、幅20~30メートルほどのこの広場こそ、日本のラグビーが関西を中心に大きく広まるきっかけをつくった場所である。
日本に最初にラグビーを伝えたのは、横浜生まれの英国人エドワード・B・クラークである。クラークは横浜の英国系パブリックスクールを出たのち、本国のケンブリッジ大学を卒業し、1899年、日本に戻って慶応大学予科の語学講師となった。体格に恵まれ、ケンブリッジ時代にラグビーでカレッジの選手にも選ばれた彼は、その年から、パブリックスクールの同窓生であり、大学でもともにラグビーに打ち込んだ実業家田中銀之助とともに、慶応の学生にラグビーを教えた。それが日本のラグビー史の始まりである。
しかし、慶応関係者の努力にもかかわらず、ラグビーはその後10年余り、関東では広がらなかった。
その種子が西に400キロ近くも離れた京都に飛んできたのは1910年の夏のことだった。慶応蹴球部の副主将だった真島進が郷里の京都に帰省したとき、楕円球を持参し、妹の許婚で三高生の堀江卯吉の下宿に泊まり込んだうえ、練習相手に引っ張り出した。そして、キックやパスの練習をしたのが下宿に近い糺の森の馬場であった。
ラグビーの面白さを知った堀江は、三高の寄宿舎で部員を募り、9月23日に初練習にこぎつけた。帰京を延ばして京都にいた真島は、慶応蹴球部が編集した「ラグビー式フットボール」という冊子をもとに、ルールやプレーの一つ一つを伝えた。当日は秋晴れで、34、5人が集まったが、まだ練習着も靴もそろわず、袴に裸足という部員もいたという。
翌年4月、三高はさっそく東京に遠征した。三田の寺院に合宿して慶応の綱町グラウンドに通って練習し、4月6日に慶応の2軍と手合わせして3-3で引き分けた。8日には1軍と戦って0-36で敗れた。これが日本人チーム同士の初の試合であり、両校の対抗戦の始まりだった。
戦後の学制改革で三高は80年の歴史の幕を閉じ、京大に教養部として合流した。蹴球部は1949年1月4日、解散式をしたのち、三高グラウンドで慶応と最後の試合をした。11-26で敗れたが「タックルと猛烈な追撃で再三慶応を窮地に追い込んだ」と伝えられる。
三高蹴球部創立60年を記念して1969年、糺の森に「第一蹴の地」の記念碑が建てられた。ラグビーワールド杯が日本で開催されることが決まり、2017年、記念碑の隣に球技上達の神「雑太社(さわたしゃ)」が再興された。2019年のワールド杯の前には日本代表の活躍を祈る楕円球型の絵馬がたくさん奉納された。以来、関西のラグビーの聖地として折々にファンを集めている。
クラークは1913年から三高で英語を教えた。16年には京大の英文科の教授となり、34年に亡くなるまで務めた。残念なことに、慶応在勤中にリューマチの悪化で右足を切断し、京都ではラグビーとはあまりかかわっていない。京大文学部には5千余冊の「クラーク文庫」が残る。死後は神戸市の外国人墓地に眠っている。
(S55年卒 真田正明)
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