• 100th.kiurfc

023: 見えなかったドロップゴール/1966年大学選手権・対早稲田戦(松尾 勝吾・成城大学ラグビー部OB/S44 中村 孝太郎)

 昭和40年度、京都大学は関西リーグ4勝3敗で関大と同率3位でした。しかし京大はその関大を破っていたので上位に進出。大学選手権出場をかけて、東海・北陸、中国・四国地区代表の中京大学と対戦。これに勝利し、関西地区第三代表に決まり、全国大学選手権大会(第二回)への初出場を果たしました。

 そして昭和41年元旦、秩父宮ラグビー場で早稲田と対戦。9-25で敗れはしたが、セブンシステムの早稲田のスクラムを、ハーフ、ウィングを加えた10人で押し込むなど、同年法政を下して学生日本一、八幡製鉄を破って日本一になった早稲田を苦しめる好ゲームを展開しました。


 私、白石良多は成城学園中学校でラグビーを始め、最初のコーチがこの試合の笛を吹かれた松尾勝吾さんでした。明治大学、新日鉄釜石、ジャパンで活躍した松尾雄治の叔父でもあります。

 卒業後も勝吾さんとは懇意にさせてもらっていましたが、この試合がよほど印象深かったのか、「まぶしくて見えなかったんだけど、観客が拍手したんでコールしちゃったよ」と嬉しそうに話してくれました。当時私は京大ラグビー部のクラブ便りを担当していたので、このゲームのことをコラムにしたいとお願いし、寄稿していただいたものです。

「続編」はそのドロップゴールを放った、中村孝太郎さんのものです。

(S54 白石 良多)



見えなかったドロップゴール!/成城大学ラグビー部OB 松尾勝吾


 今から41年前私は秩父宮ラグビー場において全国大学選手権・京大対早大のレフェリーを務めておりました。大学選手権初出場の京大は関西リーグ第三位、対戦する早大(のちに八幡製鉄を破り日本一になったティーム)に10人FWで早大FWを押しまくった。

前半を6‐11で折り返し後半早々SO中村選手が見事なドロップゴール(9‐11)を決めましたが小生残念乍らボールが太陽の中にすっぽり入り(当時は秩父宮近くにはまったくビルが建っておらづ)まったく見えなかったのですが観衆のものすごい拍手でしたのでつい「ゴール!」とコールしました。

 ゲーム後あれは素晴らしいドロップゴールだとレフェリー仲間から云われホットしました(現在はタッチジャッジがいるから安心)。

ノーサイドまで京大の捨身なディフェンスでスコアーこそ9‐25でしたが素晴らしいゲームでした。

ちなみにこのゲームの反則は京大0 早大8でした。


成城大学ラグビー部OB

関東ラグビーフットボール協会

レフェリーソサイティ・コーチ

松尾勝吾(平成28年12月逝去 享年81歳)


(クラブ便り:平成19年度 第3号 9月20日発行 より)


昭和41年1月1日、全国大学選手権・対早稲田大戦前の両チーム。中央がレフリーの松尾勝吾さん(秩父宮ラグビー場)


〈続〉見えなかったドロップゴール!/S44 中村 孝太郎


一番左に写っているのがスタンドオフの中村孝太郎

 上記コラム、松尾勝吾氏の「見えなかったドロップゴール」は、私のラグビー人生にとっても最も印象に残る出来事でした。42年と半世紀近くも前で、私は若干20歳の1回生、松尾さんは新進気鋭のレフリーでした。

 中京大に辛くも勝って関西第3代表の座を勝ち取っての第2回全国大学ラグビー選手権への出場で、元旦に行われた1回戦の相手が早稲田でした。当時の早稲田は、花園で全国優勝した時の天理高校出身の藤本をセブンエース(※)としたシステムを採用して、多彩な攻撃と完璧なディフェンスで社会人をも凌駕する最強のチームでした。


 年の暮れ東京に遠征する前-----北白川にある農学部のグランドでの練習中、当時1年生の私に、突然星名先生が、「中村君、東京に行った時には、ドロップゴールを狙いなさい。」といって、直伝のドロップキックの手ほどきを伝授され、何回もドロップキックの練習をした記憶が今もなお鮮明に脳裏に焼きついています。

 東京に遠征した最初の試合の慶応との定期戦、試合開始直後に敵陣25ヤードの左中間マイボールのスクラムからでたボールを、星名先生から教えられた通りにドロップキック。これが見事に決まり慶応に対して3点の先行をするという試合展開でした。星名先生の教えであり、約束をまずは守ったという思いでありました。


 元日の早稲田との戦いは、強豪相手に全く引けを取らずに戦ったということで、負けはしたものの満足感のある試合でありました。星名先生と石田キャップテンとの戦略だったと思いますが、SHとWTBをもスクラムに投入し、10人スクラムで押しまくり早稲田を苦しませる試合展開でした。

 前半は11対6の全くの接戦で終了し、後半に入って間もなく、敵陣25ヤード内やや左よりのラックから出たボールでしたが、早稲田のディフェンス陣が多く右への展開が難しいと思った瞬間に、星名先生から教えられたあの「ドロップゴール」が閃きドロップキックを蹴りました。

慶応戦の時のようなクリーンヒットではありませんが、何とかゴールポストのバーを越えました。後半は秩父宮ラグビー場の北から南に攻める方向で、松尾さんが書いているように当時はビルもなく太陽の日差しをまともに受け青空が開けていました。多分松尾レフリーはラックの京大側の後方に位置していたと想像できますが、その位置からゴールポストは丁度太陽を見る方向になったと思います。


 松尾さんの記憶の中に、太陽光線のために「見えなかったドロップゴール」として、今だに存在しているということを知ることが出来たわけですが、私にとってもラグビー人生一番の出来事であるだけに、非常に不思議な気がしています。


試合開始直前の集合写真について

 着席している第2列左から二人目私(中村)の左横がセブンエースの藤本(旧姓)です。

天理高校が全国制覇した時のメンバーで、最高のプレーヤーでした。彼が、ライン参加するのをバッキングアップして、横から狙って、タックルに行き、必死に防御していました。スタンドオフの横、センターの横とか、いろいろの形でのライン参加でした。藤本にタックルをしたのが、良い思い出です。しかしながら大変疲れました。


 後半途中まで9対11と接戦でしたが、最後に突き放されました。

でも京大としては、全国制覇した早稲田に対して、最小失点に抑えられて良かったです。

ちなみに、全国学生選手権の結果ですが、

京大9:早稲田25

日大6:早稲田24(準決勝)

法大0:早稲田16(決勝)

となっておりまして、京大の善戦が非常に目立ちます。得点は日大、法大に比べても最高得点です。この時の早稲田は社会人にも勝って、真の日本チャンピオンとなりました。早稲田との戦いにおいて、10人スクラム、ドロップゴールなど、星名秦の指導により、相手の虚を突いた戦法が非常に効果的となって、善戦に繋がりました。星名秦の存在無くしては、成し得ない結果であったと思われます。

 改修前の秩父宮は、バックスタンドが現在と違ってかなり狭かったのですが、満員となっている様子が良く分かります。秩父宮ラグビー場という素晴らしいステージで、しかも最高の相手と、大勢の観客の中で、元旦に試合が出来たという事は、我が人生においてかけがいのない非常に良い思い出となっております。現役の皆さんにも、ぜひともこの様な感激を味わって頂きたいと思います。

 この試合で、相手がインゴールに蹴り込んだボールを、競ってドロップアウトにしたのですが、その時に手の小指を脱臼し、その指がいまだに曲がったままになっておりますが、良い思い出となっております。試合中は、興奮状態で、痛みはほとんど感じませんでした。

この試合では、左小指ですが、後年別のリーグ戦で、チャージに行った時に右小指を蹴られて脱臼し、左小指と同じように現在も曲がったままです。全て、青春の一ページとして、若き心と体に刻み込まれたという事は、本当に幸せな瞬間だったと思っております。

(S44 中村 孝太郎)


※セブンエース(Seven Eighth):かつてのラグビーでは、セブンFW(7人)対エイトFW(8人)で対決する時代があった(現在はルール改正のため不可)。7人FWでは、1人増えたバックスの選手が「セブンエース」というポジションに就いた。当時のフル・バックは、原則最後方に位置してたので、セブンエースが、現在のフル・バックのように自由に攻撃参加していた。


(クラブ便り:平成20年度 第1号 7月15日発行 に加筆)


2005年9月23日、成城OB対関東学士のレフリーを務める勝吾氏。

試合の流れを読んだ笛は、70歳(当時)になっても衰えていない


511回の閲覧0件のコメント
更新情報をお届けします。