031: 戦後20年の青春(市川番外編)

更新日:5月27日

 いがぐり頭で、まだ少年の面影すら残る新入部員が、一人のラガーマンへと成長していく。そんな軌跡を追った映像がある。NHKに在籍していたころの龍村仁(1963年卒)が、終戦後20年に当たる1965年(昭和40年)に制作したものだ。

 主役は1969年卒の市川直義(2017年逝去)。あだ名をバンガイさんと言った。市川の手元に残っていた映像は、なぜか音声もテロップも入っていない。


当時を知る石田恒彦(昭和41年卒)、中村孝太郎(昭和44年卒)、能勢修一(昭和45年卒)、平岡康行(昭和47年卒)の4氏に映像を見ながら語ってもらった。


左から石田恒彦さん(S41年卒)、中村孝太郎さん(S44年卒)、能勢修一さん(S45年卒)、平岡康行さん(S47年卒)

 オープニングの後に出てくる試合は、春のシーズン最後の、1回生と2回生による練習試合だ。バンガイさんはすでに白いジャージがサマになっている。

 そこから春の情景に戻り、入学式、そして各部の勧誘ポスター……。当時まだ北白川の農学部グラウンドにあった部室の黒板に、新入生の名前が書きだされる。市川はよく網走番外地の歌を歌っていたから、バンガイとあだ名がついた。

 スパイクのひもを締める部員の中で、バンガイさんは普通の運動靴をはいている。白いトレパンに体操服姿で、ぎこちなくセービングに飛び込む。スクラムは足が滑るので、ほかの部員にスパイクで止めてもらう。

 「そのころ3人だけ、そういう新入部員がいた」と同期の中村。龍村は運動部歴のない新入生の中からバンガイさんを選んだのだろう。「3月ごろに龍村さんがきて、こんなものをやりたいと話していた」と主将だった石田は言う。

 鯉のぼりの映像が挟み込まれて、1か月がたったことがわかる。バンガイさんはジャージとラグビーパンツにスパイクも揃えている。腿には大きな絆創膏。練習後には、出町柳にあり、ほかの部員も通ったという福地外科で治療を受けている。四条河原町にある「静」での宴会の様子もあって、当時の部員の生活がわかる。

 夏合宿は松本の自衛隊だった。空挺部隊が練習試合の相手である。「ご飯も振りかけも食べ放題だった。みんな貧乏だったから、そんなに合宿代をかけられない。素泊まりでひどい旅館に泊まった」と石田は振り返る。ランパスやスクラム練習の場面があって、首を押さえて顔をしかめるバンガイさん。この合宿の場面で15分あまりの映像は途切れる。


※バンガイさん所有の映像に、テロップを挿入・再編集いたしました。



 バンガイさんが入学した1965年は、石田主将のもと、京大が全国大学選手権(第2回)に初めて出場した年である。60年から強化に当たった星名秦(1928年卒)の指導の成果だった。当時主流だった深いアタックラインに対し、「基本的には浅いラインをひいてパスで抜けということ」と石田は言う。元旦の早稲田との試合は、7人フォワードの早稲田に対し、京大は10人スクラムの奇策を用いて押しまくった。これも星名の提案である。SOだった中村は、星名から「ドロップゴールを狙え」と言われ、後半開始早々に決めて早稲田を驚かせた。

しかし翌年、星名は同志社の学長に就任し、京大の指導に当たれなくなった。


 宇治グラウンドに拠点を移したのはバンガイさんが3回生のころだ。創設以来の愛着がある農学部グラウンドを離れることにしたのは、サッカーやアメリカンフットボールなど使用するクラブが増えたことに加え、ラグビー部の新入部員も多く、十分に練習できる状態ではなくなったからだ。

バンガイさんが4回生になった68年、主将の中村は、学長を退いていた星名を三宅八幡の自宅に訪ねた。指導の再開を懇請する中村に、直子夫人が「行きなさいよ」とバックアップしてくれたという。「実家の酒屋の車で、毎回黄檗まで送り迎えした」と中村は当時を思い起こす。この年、京大は2度目の大学選手権出場を果たした。前回の出場時と同じく、8チームの中で唯一の国立大学だった。秩父宮ラグビー場であった中央大との試合には、バンガイさんも名を連ねている。


 「バンガイさんがフッカーで私が3番。3年間スクラムを組んだ」という1年後輩の能勢は、「バンガイさんは敵ボールを取るのが上手だった」「星名先生に言われて、ラインアウトのスローインを飽き飽きするまで練習していた」と言う。フッカーが投げ入れるのは、外国の文献を研究した星名の発案だった。

 「いまと違って我々の時代、前の3人がトライするなんてことはなかったが、バンガイさんはよくトライをされた。嗅覚が優れていた」と言うのは3年後輩の平岡である。

70年の日米安保改正を前にした大学紛争の時代だった。ラグビーを辞めて運動に参加し、行方不明になった部員もいたという。「ラグビーの練習をしていていいのか、という時代でもあった」と平岡。若者を包む不穏な空気の中でも、ラグビーに打ち込んだ青春であった。


 卒業後、バンガイさんは現役の夏合宿やリーグ戦を熱心に見ていたが、いつもほかの関係者とは離れた場所にいたという。バンガイさんが何を思っていたか、この映像の出所とともに、いまとなっては解き明かすことは難しい。

(S55 真田正明)

座談会:2021年3月21日ZOOMにて


昭和41年(1966年)春練習 大文字山、「大」の中心部にて(中村孝太郎氏より提供)

最後列左端が市川直義(以下敬称略)


昭和41年(1966年)春、九州大分遠征 日南海岸にて(中村孝太郎氏より提供)

左から、市川直義、安藤敏彦、中村孝太郎


昭和41年(1966年)春、九州大分遠征 阿蘇山頂(中村孝太郎氏より提供)

左から、久松敏之、?、望月一輝、?、岡崎亮三

?、市川直義、女性?、中村孝太郎



昭和41年(1966年)春、九州大分遠征 大分大学経済学部グラウンド(中村孝太郎氏より提供)

後列左から二人目が、市川直義


昭和42年(1967年)夏合宿。釜石駅前(中村孝太郎氏より提供)

左から、和田郁男、久松敏之、中村孝太郎、中島裕之、市川直義、岡崎亮三、安西弘孝、大矢清六、宮崎秀一



昭和42年(1967年)春、宇治グラウンド移転直後の三回生の集合写真(中村孝太郎氏より提供)

左から、市川直義、中野義久、中村孝太郎、和田郁男、外山豊、松本健

中央に座っているのが久松敏之



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