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075: 13年間の監督として〈前編〉(S39 市口 順亮・元京大ラグビー部監督・元新日鉄釜石ラグビー部主将/監督/部長)

更新日:2022年4月18日

 平成年代、13年間にわたって監督を務めた市口順亮氏(昭和39年卒)が京大ラグビー部90周年記念誌に寄稿し、学生とともに楕円球と夢を追った日々を振り返った。二回にわたって市口氏の思いをお届けする。



1.はじめに

 京都大学ラグビー部の創立70周年記念試合として、東大との定期戦が平成4年(1992年)12月20日、花園ラグビー場のメインスタンド裏グラウンドで行なわれた。試合後のレセプションは、大阪・心斎橋付近のレストラン。その席で、京大ラグビー部OB会(当時)の高野瀬宏幹事長(S26年卒)から「監督就任」を打診された。

 その年の夏、新日鐵を退職し、大阪に帰って来ていた。それまで新日鐵釜石ラグビー部の部長を務めていたが、現場を離れて10年以上経つ。直接指導することに一抹の不安を抱いた。その上、京大ラグビー部とは、OB会を含めてほぼ30年間、年賀状等を除いて没交渉で、チームの状態、OBの支援状況は知らなかった。

 暗中模索の中でスタートした監督生活は、多くの人に支えられ、時にワンマンと称され、しかし、学生の味方と自負しながら、13年間に及んだ。

 この間、毎週火曜日に必ずミーティングを開いた。三役だけ、四回生全員、各学年の代表者、全員等々、形を変えながら数え切れない回数のミーティングを行い、必ず資料を提供してきた。A4の資料を重ねると30センチ以上の厚さになる。そのプリントを紐解きながら監督生活の思い出をまとめた。



2.13年間の指導


 指導した平成5年(1993年)から平成17年(2005年)の卒業生は約185人となる。平成17年の3回生以下28人を入れると200名を超す。

 この13年間を自分なりに三期に分けた。第一期は、指導開始の平成5~8年の4年間。第二期は平成9~14年の6年間。第三期は平成15~17年の3年間だ。


 第一期は、釜石ラグビーで培った知識で指導した期間で、無我夢中だった。技術的には解が出ないまま試行錯誤した時で、成績はBリーグからCリーグに転落という苦しい時期だった。学生、特に各年の主将すなわち中川祐一、深津光生、勝山義博、星野耕平に多大な迷惑をかけた。東大にまったく歯が立たない時期でもあった。しかし、サーキットやクロスカントリー等、社会人に近いフィットネスに取り組んだ。

 この第一期で、全ての基礎を作った感がする。フィットネスはもちろん、運営方法としての毎週火曜日のミーティング、スピンパスの採用がその後を支えていく。


 第二期は、自分なりに指導方針が定まり、それを徹底した。東大にも勝てるチームを育て、最も充実した期間であった。本田剛久、小原淳一、吉田学、榎原友樹、福本匡志、横山修一郎の各主将ごとに力が上がって行った。


 第三期は、Cリーグとの入替戦に出場する等、苦労した。力の落ちたチームの宮田隆治、松下慎二郎両主将の気苦労は大変なものであった。松下主将の時は、5連勝を目指した東大戦でもリベンジに遭った。しかし、指導最後の年には原点に戻り、スクラムやラインアウト等の基礎練習に取り組んだ。その結果、竹内広悟のキャプテンシーや学生の頑張りにより、好成績で指導を終えることができた。



1)第一期の指導(平成5~8年)


 この時期は、指導方針が定まらず、最も苦労し学生にも迷惑をかけた。一方で、同志社、慶応に勝つ成果を上げた時期でもあった。

 1年目(平成5年)は、外のスペースを利用すべく、味方陣からの攻撃を指導した。8校制のBリーグではあったが、関大と引き分ける等の健闘があった。しかし、勝負時の大阪教育大に惜敗。入れ替え戦で甲南大に敗れてCリーグに陥落した。反省としては、FWの走力不足の改善に至らなかったことと、ラインアウト確保の技術を指導しきれなかったことだ。

 2年目(平成6年)のCリーグでは、FW勝負の安全策を指向し、5人ラインアウトからのワインディングを中心に指導した。定期戦では慶応、同志社を破る力がありながら、首位争いの大阪産業大戦はFW戦で完敗した。Cリーグでも身長・体重を含めたFWの体力不足を痛感した。この年も、ラインアウトのキャッチング能力を改善しきれなかった。

 3年目(平成7年)は、もう一度BKの強化を図る必要性を感じ、ショートライン技術を指導した。両センターのパス能力不足を補う意味もあったが、相手の広いディフェンスにつぶされる結果となった。しかし、ショートラインの副産物として、ランギープレーが生まれた。ラインアウトでは、リフティングが解禁となり、Kサイン(SHの横走り)が生まれた。Cリーグでは、大阪学院大と京教大に引き分け、関学に逆転トライを許す等で3位に甘んじ、入れ替え戦にも出場出来なかった。ランギー・Kサインの後の逆目攻撃からのキックや、ペナルティーからの隅一キック等の試合運びの基本ができた結果、東大戦・慶応戦で善戦できるようになった。

 4年目(平成8年)は、3年間を振り返り、京大としての基本技術はラックとバックスの展開であるとの考え方で、パス練習に取り組んだ。従来のスイングパスに代わり、スピンパスを取り上げた。斜めに走り、フラットパスを合い言葉に、1年間指導した。リズムを作るため、パスでボールをSOに渡すだけでなく、ラックからSHを横に走らせる戦法も取り上げた。FWには、短いパスを禁じ、相手に当たってラックにすることを指導した。結果としてBKの得点能力が上がり、Cリーグでは1試合平均8トライを上回った。しかし、フロントロー・ロックの得点が皆無の結果も招いた。



2)第二期の指導(平成9~14年)


 この時期は、最も充実した指導ができた時であった。この時期の私の気持ちを永田洋光さん著「鉄人たちの雌伏 釜石ラグビーの新たな挑戦」から引用する。


穏やかに晴れ上がったクリスマスイブの午後、東京は青山にある秩父宮ラグビー場で、ひっそりとラグビーの試合が行われていた。全国大学選手権順々決勝は前日に、全国社会人大会準々決勝は前々日に終わり、勝ち残って「日本一」を目指している選手、監督、コーチも、熱心なファンも、この日くらいは家族や恋人と水入らずの時間を過ごしてはずなのに、「日本一」とは無縁な大学生たちが楕円形のボールを追いかけていた。



 市口順亮はその秩父宮の、観客席ではなく、メインスタンド下のタッチライン沿いにコート姿で立っていた。京都大学ラグビー部監督として、東京大学との定期戦に臨んでいたのだ。



大阪で中央広告株式会社の代表取締役社長を務めながらも、いまだにラグビーの現場に身を置く市口は、孫のような年齢の大学生たちにラグビーを教え、教え子たちはそれを忠実に実行して四トライを奪い、東京大学の、バリエーションには欠けるが猛烈な気迫に満ちた攻撃を三トライに抑えて勝った。喜びに沸く京都大学フィフティーンはキャプテンを胴上げすると、口々に「いちぐち」「いちぐち」と叫びながら、60年代に鬼気迫る勢いで釜石ラグビーの基礎を築いた男を取り囲み、兄貴分のコーチみたいな気安さで「聖夜」が迫る空へと投げ上げた。




  「ま,見ての通りです。学生たちがよくやった」


 胴上げから解放された市口はそう言って笑った。ターゲットに据えた試合を勝った指導者独特の、笑みが顔に貼り付いていた。市口に取材を申し込んで以来、何度かEメールでやりとりしたが、京大に12月24日に秩父宮ラグビー場で会うことを希望すると、こんな返事が戻ってきた。

「釜石時代も、人が馬鹿にするような、試みをしてきましたが、京大に来て、学生相手に〝昔〟をしています。若干自己満足的な試みですが、私の考え方を理解する1つの解があるかもしれません。今さら釜石の昔話をするより、京大のラグビーを見てもらった方が、私の考えていることがわかると思います」

京都大学の学生たちは、ここは相手に当たるしかない場面では決然と当たり、意外な強さをと巧みなボディ・コントロールを見せていたが、試合を通じて貫かれていたのは「当たり」でなく、「パスで抜く」ことだった。なるほど、市口のラグビーは、こういう形で釜石以降も息づいていたのか----と納得させられた。


「そうなんだ。今みたいにセンターがガチャガチャ相手に当たるようなラグビーはつまらない」感想を伝えると市口は嬉しそうに肯き、京都大学の誰がどういうパスを放り、誰がどう教えられたことをしっかり実行したかを早口でまくしたてた。それでも釜石創生期の事柄に関しての質問には丁寧に答えてくれたが、最後はすまなそうにこう言って、学生たちの元に戻っていった。



「・・・というわけで、釜石のことは気に掛かっているし、本当に早く強くなってもらいたいと思うんだが、こっち(京大)で頭が一杯なんだ」



3)第三期の指導(平成15~17年)


 平成14年に5位を達成しながら、平成15、16年の2年間は9位となり、入れ替え戦を経験する苦しいシーズンだった。しかし、15年の入れ替え戦は52-5(対大阪学院大)、16年は54-7(対大阪大)と危なげなく撃破した。ただ、5連勝を目指した平成16年の東大戦を落としたのは今でも悔やまれる。指導最後の平成17年は、リーグ戦は8位であったが、東大戦でのA・Bチームの活躍に見られるように、新しい芽が吹き出し始め、次の年以降の飛躍が予感できた。



3.定期戦の思い出


 京大ラグビー部は、毎年、東大、慶応大、同志社大、関学大、立命大、九州大、防衛大、成城大の8試合の定期戦を行って来た。特に東大とは、指導開始初期は、手も足も出なかったが、辞任時期には、対等に対抗できる所まできた。慶応、同志社、関学、立命と昨今では力の差のついた大学に一度は勝てたのも幸せな出来事であった。指導最後の年には、前年悔しい思いをした防衛大・九大を、12月の最後にはA・B共に東大を破る大きなプレゼントを平成18年卒の竹内主将達から貰った。




1)東大戦13連敗を免れる


 平成9年(本田主将)の仕上がりが良く、東大には今年こそと上京した。しかし、検見川グランドでの練習には、SHを予定し、東大戦の鍵を握ると目論んでいた吉田が腕に腫れ物が出来て参加できず、翌日の東京のNTT二俣グランドでの試合も出場が叶わなかった。吉田のいない試合で不安感を抱いた試合であったが、前半15対12とリード。勝利目前まできたが、最後は突き放された。最終スコアは、5点差で残念ながら、監督就任5年連続で敗戦となり、12連敗となった。

 しかし、この4年間、勝利への執念、球への執着、低いタックルと何を取っても上回ることが出来なかった東大に対し、漸くパスを使って外でトライ取る京大スタイルが通用する手応えを感じた。

 平成10年(小原主将)は伊丹の住友グラウンドで、C(35-5)、B(24-19)、A(14-12)と夢を達成した。

 平成14年(横山主将)12月23日の宝ヶ池球技場では、京大ラグビー部80周年記念行事として、東大との定期戦が行われた。試合後のパーティで、「80周年の80に2足りない78点は残念であった」と監督就任当初は考えられなかった挨拶が出来た。その翌年(宮田主将)は80-0と大差となった。




2)慶応に二十数年ぶりの勝利


 慶応との定期戦は、私が学生時代は元旦に行われる行事だった。大学選手権が発足して、秋のシーズン始めに行われるようになった。しかし、関西Bリーグが10チームに増え試合数が増えたことや、慶応側もリーグ戦グループとの交流戦等のため、平成9年の京大ラグビー部75周年記念試合を最後に、平成10年から春に定期戦が行われるようになった。そのような変化の中で、平成6年(深津主将)9月15日の定期戦での嬉しい勝利が記録されている。

 朝からの雨のため、グランドコンディションは最悪であったが、京大としては、昭和46年以来の勝利を得ることが出来た。試合としては、相手に先行され、後半早くに逆転したものの、再び逆転され、終了間際の京大のトライで、ゴールが決まらず、13対14で終了かと思われた。試合最後のキックオフを、京大はFW・BKと繋ぎ、最後に右隅に逆転トライを決めた。



3)同志社戦---嬉しい星名杯の持ち帰り


 平成6年(深津主将)9月25日の私のメモに次のような内容が残っている。

前半20対0で折り返し、後半トライを3つ許したものの逃げ切り、44年振りの勝利を得た。なお相手は、4回生中心のチームであった。試合内容としては、前半ペナルティー2つ、トライが2つ(ゴール成功)であった。トライの1つは相手の攻撃を断ち切った時にできたラックを制したもの。もう1つは左22m付近から8-9でスクラムの左を抜け、SHがトライしたもの。試合としては、相手の攻撃をタックルでしのぐ形であった。京大としては、ロングキックで相手陣深く入り、ラインアウトからモール・ラックで攻める作戦であったが、前者はうまくいったものの、後者はノットストレート等で空回りの傾向であった。

 ここに記されている「44年振り」は記録を調べたものでなく、当日試合を見に来られたOBの皆さんから聞いたことを書き写したものである。



4)衣笠グランドでの立命館戦勝利


 星名先生のお墓がある立命館の衣笠校舎から少し昇った山の上の衣笠グランドで、平成8年(星野主将)5月3日、29-24で快勝した。この試合のメモには、この年と次の年に指導したSHのセーフティゾーンでの横走りの初期時の評価と共に、メンバーが記されていた。

大蔵・山本・星野・八木・山内・中川・佐野・本田・野田・蓑田・福井・前田・木内・智樹・五島



5)関西学院大からスクラムトライ


 関学との思い出は、一緒にCリーグで苦労したことであった。そのライバルから、平成8年11月10日、関学グランドで京大がスクラムトライを挙げた。フロントーは大蔵、山本、星野(主将)のトリオで、相手陣右ゴールポスト下に押し込んでのトライであった。試合は31-18で京大が勝ち、京大が1位、関学が2位の成績で、一緒にBリーグに昇格した。このスクラムトライは、指導した13年間の公式試合で唯一の快挙であった。その後は、良い試合はするが勝てず、次第に差を開けられ、平成15年に関学はAリーグに昇格した。



6)6連勝後、3連敗するも、最後は、勝利で終えた防衛大戦


 防衛大学には、当初3年間勝てなかった。その時の山本巧監督の、入学した素人集団をラグビー部に勧誘する情熱に負けた記憶が残っている。その後6連勝するも、また「ラグビーの作戦と戦術」を早稲田の日比野弘元監督と共著する情熱が蘇り、3連敗。しかし、最後の年はB(34-10)、A(45-24)共に快勝して、良きライバル山本監督との試合は終わる。



7)元新日鐵釜石・松尾雄治君と戦った成城大戦


 当初、勝てない時期があり、隔年に相手校へ遠征する意味を自分自身問うたこともあった。13年間で7勝5敗1分けだった。途中から元新日鐵釜石で同僚であった松尾雄治君が監督として登場。部員不足に悩む姿を見た。



8)100点試合もあった九州大戦


 東大戦前の調整試合、あるいは、東大戦後の試合で、やりにくいスケジュールの定期戦であった記憶が残る。Bチームの相手が九大ラグビー部では作れず、医学部ラグビー部だったこともあった。平成11年(吉田主将)には、118対10と100点を超す試合もあり、定期戦の意義が問われることもあった。しかし、最後の方は九州大学リーグのAリーグで活躍するようになり、初めて2連敗したこともあった。通算では8勝5敗であった。



S39年卒・S38年度主将 市口 順亮(京大ラグビー部九十年誌より再編集)



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