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104: 【創成期編6】谷村敬介による京大ラグビー部の創設(S55 真田 正明)

 日本に近代ラグビーをもたらした香山蕃は1920年、東京帝国大学政治学科に入学した。三高時代はラグビーのオフシーズンに陸上競技もしていて、一高との対抗試合で活躍していた。1年目は、誘われるままに陸上競技をしていた。そのころ学内で秋に開かれる運動会が、一大行事だったためだ。



谷村敬介氏

 当時、関東では慶應に続いて1918年、ようやく早稲田に2つ目のラグビー部ができたばかりだった。1921年4月に三高から、西村謙三、大村紀二、井場直人、藤田佐一郎らのラグビー経験者が入学してきて、香山は東大にもラグビー部をつくることを決意する。


 それと同時に、京都一中、三高時代を通じての盟友・谷村敬介(T12)に「今年、東大でラグビー部がつくられることになった。京大でもぜひつくれよ。対抗試合をして、ラグビーの発展と普及に貢献しよう」と要請した。








 谷村は最終学年の3回生になった9月早々から、部員集めに取りかかった。しかし、経験者が少なく、思うに任せなかった。一時は断念しかかったが、香山が京都までやってきて「約束を破るとは、もってのほか」と発破をかけた。谷村は「試合をする」と答えるしかなかった。

 谷村は三高での経験者に加え、京都一中時代の人脈を使い、選手をかき集めた。東大はBKが優秀だという話だったので、FWで対抗しようと、セカンドローには三高時代に野球をやっていた大柄な選手2人を引き入れた。ようやく試合ができる人数を集め、12月には三高のグラウンドで三高を相手に練習を始めた。


1912年度の京都一中ラグビー部員。 前列左端が谷村、その隣が香山。

 この間、大学当局にラグビー部創設を願い出た。前年から東大とのスポーツ対抗戦が始まっていたが、ボート、剣道、弓道、野球など、柔道部以外は負け続きだった。当局側は「東大に負けるような部を増やすわけにはいかない」と首を縦に振らなかった。やむなく谷村らは「京大倶楽部の名で試合をする」と妥協し、翌年度には承認するとの暗黙の了解を得た。未承認の部に予算はつかず、ユニホームの費用は谷村が出したという。



 最初の試合は京一商だったとされるが、記録はない。そのあと12月24日に、大阪高商(現大阪市大)と三高グラウンドで対戦し、6-9で負けた。翌年1月7日に再戦し、3-0で勝った。

 一方の東大は、11月上旬には31人の部員を集め、練習を始めていた。翌1922年1月、東大は関西遠征に出る。1週間ほどで4試合をするという強行軍だった。神戸外人に負け、関西ラグビー俱楽部(オールホワイト)に勝ち、10日に三高グラウンドで京大と対戦した。東大は、前半香山が1トライ、後半には鶴原浩二が2トライを決めた。京大はノートライに終わり、0-13(0-5、0-8)で負けた。


1918年度の旧制三高ラグビー部、このうち12人が東大対京大の初戦に出場している。 前列=佐伯巧介(東大)、岩田岩男(京大)、主将・谷村敬介(京大)、鶴原浩二(東大)、坪内直文(東大)、熊野省四郎 中列=鈴木茂(京大)、安在鶴(京大)、奥村恵吉(京大)、香山蕃(東大)、丹下郁太郎、鈴木(一井)新次、三好彰三 後列=山本晴二、高井重太郎、大村紀二(東大)、井場直人(東大)、滝口純(京大)、逸見重雄、平井(敬称略)。


 主審は三高OBで天狗俱楽部などに所属した竹上四郎が務めた。出場メンバーを見ると、谷村、香山、鶴原をはじめ双方ともに半数以上が三高出身者とみられ、当時の三高の影響力がしのばれる。両チームともに慶應創部以来の7人FWではなく、エイトシステムを採用しているのも、英国流のラグビーを研究していた三高の影響とみられる。東大は京大戦の翌日、三高と対戦したが、強行軍がたたり負けた。


 この年、京大学友会役員会で、ラグビー部の創設が正式承認された。東大ラグビー部が大学当局に正承認されたのも同じ年だが、東大は1921年を創部の年としている。

 両校の定期戦が1991年に70周年を迎えたのを機に、谷村敬介から楯が贈られた。その楯にはこう書かれている。

「谷村敬介楯 東大京大ラグビー定期戦は香山蕃と谷村敬介の熱意により、1922年に創まり70周年を迎えた。創志を尚び更に旺んなるを希いここに楯を贈る 1991年12月23日」

谷村敬介は、この言葉を遺言とするように、1993年1月30日に亡くなった。


谷村敬介楯。

全日本対ウェールズ応援ツアーの団長として渡英した谷村敬介(中央右側)。

(S55 真田 正明)



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