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108: 戦後の国際交流「オックスフォード大学との対戦」(T15 奥村 竹之助・S25 柴垣 復生・S50 柴垣元太郎)



国際交流復活に奥村の尽力


ようやく戦後の混迷から脱け出しはじめた昭和27年1月、戦後初の外人チーム「全香港ラグビーチーム」招へいが実現した。その推進力となったのは、かつて三高時代に英国皇太子を招いてプリンスマッチ"を実現したときの立役者、奥村竹之助(大正15年卒)であった。長く英米在留生活を経験し、国際ラグビー事情にも精通していた奥村の国際交流復活にかける情熱と、そのねばり強いすぐれた行動力が、幾多の暗礁を乗り越えて実を結んだものである。続いて3月には「在朝鮮ニュージーランド部隊選抜」の来日を迎えるが、奥村には、国内にとじこめられている日本チームの海外遠征実現にかける期待があった。奥村は当時、次のように語っている。


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外国為替委員会委員時代の奥村竹之助。


「香港チームの来征、さらに恐らく実現すると思われる朝鮮駐屯軍チームの来征により、日本の各チームが、この強敵を迎えて一戦交え、そのプレーを通じて本場のほんとうのラグビーを体験することができることは、殻の中にある日本ラグビー界を揺りおこすこととなり、極めて意義あることと思う。しかも、これが契機となって、近き将来必ず待望の海外遠征が実現するものと確信する」

さらにこの年、9月に入ると、本場・英国ラグビーの代表的チーム「オックスフォード大学チーム」がやってきた。これをきっかけとして次の昭和28年9月には「ケンブリッジ大学」、続いて「豪州学生選抜」(昭和31年2月)、「オールブラックス・ジュニア(コルツ)」(昭和33年2月)、「カナダB・C」(昭和34年2月)、「オックスフォード・ケンブリッジ連合」(昭和34年9月)...と、続々と外国チームを迎えることになるが、このオックスフォード大学チーム招へいにも、当時の朝日新聞社企画部長、西野綱三とともに、奥村の熱意と努力があった。この間の事情は「日本ラグビー史」に詳しいが、同書は次のように記している。


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昭和28年(1953年)ケンブリッジ大学ラグビー部来日。得意の英語で談笑する奥村全日本監督。
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昭和28年(1953年)ケンブリッジ大学ラグビー部来日時の全日本チーム。


「オックスフォード大学ラグビーチームの招聘の実現には、やはり奥村竹之助が非常な尽力をしたが、多忙な準備活動のあと、全日本チームの監督まで買ってでた無理が災して、東京ラグビー場のスタンドで倒れ、その後しばらく療養生活に入った。しかし、どうにか回復すると、また日本協会の専務理事をやり、日本ラグビーの国際交流に余暇のすべてを注いだが、昭和35年1月31日、彼が作ったといっても過言でないラグビー場クラブハウスで、日本協会の理事会を開催中に脳溢血でたおれ、ついに再び立たず、翌2月1日死去した。彼の自信に満ちた強気なやりかたが、ときに独断の批判をうけることもあったが、彼が修練して身につけた正しいラグビー・スピリットにもとづいて、精根をうちこんだ日本ラグビーはすくすくと育ち、彼の功労のかずかずは何人の追随も許さぬ実績を史上に残した。」


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昭和27年(1952年)10月、オックスフォード大学ラグビー チーム来日。写真はクラブ関西における歓迎会のひとこま。中央が奥村さん、向かって右ヘブラード主将、室賀夫人(奥村さんの令姉)、同令息由雄氏、右端室賀氏(義兄)、向かって左はファーダソン選手。

京大では奥村を偲んで昭和35年3月20日、農学部グラウンドで現役対京大OBによる追悼試合を行っている。

なお、昭和27年の「全香港」は2勝1敗1分、「ニュージーランド部隊選抜」は5勝1敗。「オックスフォード」は7戦全勝と圧倒的な強さを示した。京大からは「香港」と対戦した「関西・九州連合」にSO柴垣(OB)、「ニュージーランド」と対戦した「全関西学生」にFW堀田、SO桂、FB宮川、「全関西」「全日本」に柴垣が出場した。また「オックスフォード」と対戦した「全京大・同志社・関学連合」にはFW中村(OB)、SO柴垣(OB)、TB谷口、FB宮川、「全日本」にはSO柴垣が出場している。


日本ラグビー協会総裁秩父宮雅仁殿下は、ご療養中であったが、オックスフォード大チーム来日の際は、小康を保たれていたのでグラウンドにお見えになり、一行とご歓談もされた。これが最後のご観戦となって、 昭和28年1月4日ご永眠になった。東京ラグビー場は殿下の遺徳をしのんで秩父宮ラグビー場と改名された。





柴垣復生(S25)へのインタビュー 柴垣元太郎(S50)

2022年7月23・24日 宮崎高鍋にて


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代表キャップをかぶる柴垣 復生さん

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昭和27年(1952年)10月1日、戦後初めての公式国際試合「全日本 VS オックスフォード大学」が開催された。(於・花園ラグビー場)

昭和27年(1952年)全日本 VS オックスフォード大学、全日本チームの集合写真

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チームメイトと共に



柴垣元太郎(S50)より叔父の柴垣復男(S25)への一問一答


Q 終戦後の京大ラグビー部の活動状況、メンバー状況は?

  • 兄志郎は京大入学後学徒出陣で離れ、戦後戻ってきて短期間京大でプレーした。一年程度いっしょにしたかも。同じ下宿にいた記憶がある。

  • 100周年サイトの岸田健さん(S28)/堀敬二(S28)さんの項を見せたら懐かしがっていた。

  • 岸健は薬学4年+法学3年の計7年も京大にいたあと住商へ行ったと。


Q グランド状況は?

  • 北白川のグランド。下宿も北白川。


Q 授業と練習は?

  • 午前中は授業に出て午後練習していた (意外な回答でした)。


Q 神戸製鋼では?

  • 輸出部で海外に営業に行った際、ラグビーをしていたというとすぐにやあやあと打ち解けて話が進み、同僚からうらやましがられた。


Q 1952年SOとしてOxfordと対戦した感想は?

  • 関西連合で出た時ドロップゴールを決めて相手も拍手してくれたことを覚えている。

  • 当時チーム編成をしていた庄野さん(天中OB)から相談受けて、SHは天中後輩の門戸さん(天中-同志社-近鉄)を指名した 。

  • ラインアウトから流れたボールをSHの門戸さんが拾ってパス、それを蹴った。

  • Oxfordは身体も大きく、こんな相手と戦争したら負けると思った。

  • Oxfordの選手の顔は全く覚えていない。

  • 関西連合のフルバック宮川、ウィング谷口は覚えている。


※叔父の柴垣復男は、足腰ならびに心肺機能は良好なるも寄る年波には勝てず、会話で得られる情報は限りがありました。



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巻頭言

歓迎の辞

英国大使メッセージ

歓迎の辞

オックスフォード大学ラグビー・クラブ小史

試合にのぞみて(各チーム監督の抱負)

オックスフォード大学チーム選手紹介

オックスフォード大学メッセージ

オックスフォードを迎える早慶明

オックスフォードを迎える関西ラグビー界

九州軍としてオックスフォードを迎えるに当って

明治時代のラグビー(7)

ラグビーの生い立ち

ウイングTBプレーに就いて

学生スポーツの在り方

中南米一国一話

公示事項

編集後記


日本ラグビー デジタルミュージアムより






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柴垣 復生さん近況写真(2022年7月23日撮影)

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