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007: 釜石黄金時代の基礎を築いた京大OBとの深い縁(森 重隆・日本ラグビー協会会長/特別インタビュー1)

更新日:2021年11月26日

"To The NEXT 100 Yrs" 次の100年へ。

《特別インタビュー》

1984年度までに日本選手権7連覇を達成した新日鉄釜石ラグビー部。現在も釜石シーウェイブスとして活動する古豪は、京都大学ラグビー部とも深い縁を持つ。釜石の黄金期の中心メンバーだった日本ラグビー協会の森重隆会長に、古巣での思い出や、京大との交流について聞いた。



▼特別インタビュー1:森重隆日本ラグビー協会会長のインタビュー動画はこちら




――新日鉄釜石と京大ラグビー部は昔から交流があった?

市口順亮さん(いちぐち・よしあき。京大を昭和39年に卒業し、釜石で監督などを務めた)の影響が大きかったと思うんですよ。僕の現役時代、市口さんは副部長だった。技術系の仕事だったので忙しくてあまりグラウンドには出てこなかったけど、たまに来た時は難しいことを言ってましたよ。酒を飲んだら何を言っているか全然分からなかったけど(笑)、けっこう理論派だった。



――タッチフットも市口さんが釜石で始めたのが日本で初めてだったそうですね


最初にそういう技術を導入したのはすごいですね。釜石の基礎を築いたのは市口さんです。特に採用のところが功績じゃないですか。4年、5年先のチームがどうなるかということを考えておられたのが偉かった。当時の釜石には、高校生を年に3~4名、それに学卒(大学卒)を2年に1名という採用計画があり、それに基づいてやっていた。市口さんは北海道も含めて全部回り、高卒の選手たちをいっぱい連れてきた。市口さんが種をまいたおかげで、秋田工や黒沢尻工や北見だったり、色々な高校の先生から「こんないい選手がいる」という情報が入るようになった。



――当時の釜石は練習内容も先進的だったのですか


市口さんは口を出さなかったから、練習はでたらめでしたよ。きつくて。会社が終わって5時半くらいから練習をするけど、走るばかり。今じゃ考えられない。FWがパスやキックの練習をすることも、(釜石入社前の)明治大学の時だと考えられなかった。「必要ないんじゃない?」なんて思っていた。今ならフッカーがパントを挙げたりもするし、「なるほどな」って思うけど。(明治の頃)北島忠治先生からは「FWはパスする必要はない」って言われてましたよ。



――私が京大でラグビーをやっていたときも、市口さんが4年間、監督でした。SHの走るコースについて書いた資料を部員に渡してくれて、そこには三角関数の式が色々書いてありました


俺と同じ匂いがするな(笑)。



――FWがパスだけでなく、キックの練習をしていたのは珍しいですね


普通ならバックスがキックの練習をするところにFWも入っていた。(毎日)そういうものから練習が始まった。僕が引退した後に13人がボールをつないだトライ(1984年の神戸製鋼戦)があったが、ああいう練習がそこにつながったんじゃないかな。この前のワールドカップで言えば、(スコットランド戦の)稲垣啓太のトライですよね。(釜石のラグビーは)やっていて面白かったですよ。パスがつながる。その頃はキックを上げて陣地を取って攻めるというのがパターン化されていたけど、それがなかったから。きついのもあるけど楽しかった。この間の稲垣のトライなんかは、普段から走っていないと取れないですよ。釜石の13人のトライも、走っていないと取れない。一番ボールから遠いやつが、その感覚を持っていないと取れないトライです。

 でも、今振り返ればの話だよ。その時は、なんでこんなつらいの?って思っていた。その練習が終われば「市口時間」。1週間か10日に1回くらい、市口さんと酒を飲んでいた。飲み屋じゃなくて、グラウンドの近くの酒屋で飲む。市口さんは、意見が違う部員にけんかをさせるのが大好きで、「もっといけ」なんて言って。ラグビーに対する考え方の違いとかを議論させるのがものすごく好きだった。本音で話して、すっきりしてまた練習しようという感じだった。そこでコミュニケーションが生まれて、「あいつはうるさいやつだけどいいところがある」とか、打ち解けることができた。



――京大は森さんの現役時代に3年間、釜石で合宿をさせてもらいました


市口さんのおかげだと思うけど、「京都大学がなんでくるんだ」みたいなのはありました。京都大学は真面目だったですよ。下手だったけど一生懸命やる。強くなりたいっていうチームと、まあいいやっていうチームがあるけど、京大は釜石まで来て何かを得ようとみんな一生懸命だった。美しいっていったらおかしいけど。大学生が勉強もせずに、強くなりたいって一生懸命ラグビーばかりやってすごいな。これで日本は大丈夫なのかなと思った(笑)。



――当時のOBに話を聞くと、「対面の森さんがステップを踏んだら、目の前から消えた」と話していました


そんなことはないですが、せっかく釜石まで来てくれのだから、僕の持っているスキルを教えたいという思いはあった。こいつらは一生懸命やっているから、全員に教えてやって、同志社に勝ってもらいたいと思った。慶応大学や明治もたまに来ていた。日本協会の山城泰介副会長も(慶応時代に)釜石で合宿している。「衝撃的だった。慶応と釜石の選手は同い年くらいだけど、ラグビーへの取り組み方が全然違った。釜石は夜もわいわい飲む。そのへんがいいチームだなと思いました」と言っていた。



――京大ラグビー部の監督や同志社大の学長を務め、「関西ラグビーの父」と呼ばれた星名秦さんも合宿の時に釜石に来られたそうですね


何回か来られたらしいんですけど、あのおじいちゃんかなっていうイメージしかない。



――口を出したりはされかったんですね


全然。ラグビーの指導者には厚かましい人もいるけど、他のチームには何も言わなくていい。そういうのをわきまえている人が指導者にならないといけないですね。


(2020年11月28日/日本ラグビー協会にて)

インタビュアー:谷口 誠(H14 /FL)/ 日本経済新聞 記者

撮影:西尾 仁志(H2 /CTB)


▼森重隆さんのプロフィール

1951年、福岡県生まれ。福岡高校でラグビーを始め、明治大学を経て1974年に新日鉄釜石に入社。主将、選手兼監督として日本選手権を4度優勝した。1974年から日本代表でもプレー。27キャップを獲得し、主将も務めた。1982年に現役引退。91年に実家の森硝子店の社長に就いた後、福岡高校ラグビー部の監督も務め、全国大会に導いた。2015年に九州ラグビー協会会長に就任。2019年からは日本ラグビー協会の会長を務める。



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