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033: ハイツなおかつ物語〈前編〉(S55 瀬戸口哲夫/S57 江口文敏/H2 染宮秀樹)

更新日:2021年11月26日

 大学の周辺には、歴代のラグビー部員がお世話になる下宿がいくつもある。なかでも「ハイツなおかつ」は、家主の中村直勝さん、直人さん親子が同志社大学ラグビー部出身、直勝さんの弟孝太郎さんが京大ラグビー部S44卒とあって、とりわけ縁が深い。

ハイツで青春を過ごしたOB・現役計6人と中村直人さんに、思い出を寄稿してもらった。

コロナ禍で厳しい環境の中でも顔上げて前進しようぜ!のエールを送る中村直勝さん

瀬戸口哲夫(S55卒)


  直勝さんが、元田中の酒店倉庫の上に3階建てアパート(トイレ、炊事場共用)「ハイツなおかつ」を建てられたのは、私が留年生活に入ったS55年春でした。

入居募集されているのを江口君が見つけてきて、そろって入居しました。

 入居希望で店へ行くと、直勝さんが関西学生リーグの顔写真入りメンバー表を出してきて、申告内容に偽りがないことを確認して入居が許可されました。

直勝さんが確認したと思われる関西学生リーグの写真入りメンバー表

 直人は当時、坊主頭の小学6年生。よく勉強を教えて晩御飯を食べさせてもらいました。太っ腹の奥さんのご飯は美味しいし、ビールは店の冷蔵庫から勝手に出してきて飲み放題。

留年中は「なおかつクラブ」でラグビーもさせてもらいました。メンバーの酒の飲み方は過激で、私も酔って先斗町の居酒屋「羅我亜」でオヤジメンバーと喧嘩して目の周りがパンダ状態になったことがありました。

 配達のアルバイトもさせてもらいました。合鍵の束を持って昼間の木屋町、先斗町などの店を回ります。ビール瓶2ケースかかえて狭い階段を登るのは大変でしたが、バイト料をもらった上に筋力トレーニングができると思って喜んでやってました。今なら1ケースでも無理でしょう。

 五山送り火の夜は、直勝さん一家がアパート屋上で眼前の大文字を見ながら大宴会。この時、直勝さんから「お前の先輩や!」と紹介され、中村孝太郎さん(S44卒)と初めてお会いしました。

 2017 年に下賀茂神社で行われたラグビーW杯組み合わせ抽選会で、久しぶりに直勝さんと直人に会いました。坊主頭の小学6年生が立派なオヤジ(社長)になっているのを見て、あっという間に過ぎた年月と老いた自分を実感した次第です。

 「ハイツなおかつ」の卒業生が増え続けているとは知りませんでした。いつか同窓生ミーティングをしたいものです。

1979年第53回慶應定期戦(京大7対60慶應)。中央右、頭に白テープが瀬戸口さん(協力: ラグビーマガジン)



江口文敏(S57卒)


 私は大学4年間で3回引越しましたが、2か所目がハイツなおかつで、3年生の春から1年間ほど住んだと思います。教養課程の2年間が終わって専門課程になり、ラグビーも更に忙しくなると考えたのかもしれません。

 2年生の終わりごろ、よく行った西部講堂の生協で見つけて見学に行ったと思います。

直勝さんに大学とクラブを聞かれ、京大ラグビー部ですと答えたら、「弟が君たちの先輩だ。新日鉄に入社して今は名古屋に駐在しているが、近いのでよく帰ってくるよ」とおっしゃっていたように思います。

 瀬戸口さんがラグビー引退後、学校に残るので学生向けアパートを探しているとおっしゃっていたので、「空いている部屋がありますよ」と話したところ、早速、直勝さんと会い、入居に加えて、直人さんの勉強をみたり、なおかつクラブでラグビーしたり、配達のアルバイトをされたりしたことを覚えています。

 なおかつクラブは、宇治のグラウンドで練習試合をしたことを覚えてます。直勝さんや瀬戸口さん、同志社ラグビー部の若手OBが入っていて面白かったです。配達も重くて結構大変だと言っておられました。

 私は卒業して銀行に就職。勤務は東京、ニューヨークがほとんどでしたが、たまに京都に行った時になおかつ酒屋に立ち寄るたびに、奥さんがお店におられて、直人さんが洛北高校に入ったとか、同志社大、サントリーでラグビーしているとか、息子の試合を観戦に主人と2人で海外に行ったとか、とても嬉しそうにお話されたことを思い出します。

そうですか、ハイツなおかつにはその後、後輩たちも入居しているのですね。

1981年関西Aリーグ関学戦(京大22対16関学) 写真中央でサイドを突く江口さん(協力: ラグビーマガジン)


染宮秀樹(H2卒)


 私は昭和61年4月から平成2年3月まで、ハイツなおかつ201号室に入居していました。今回、初めて大先輩の瀬戸口さんや江口さんが入居されていたこと、今でも入居している現役がいることを知りました。お陰でこのように当時を思い出す機会をいただき、嬉しい限りです。

 貧乏学生だった私は、当時京都市内にも増えてきていたワンルームマンション住まいは予算的に厳しく、入学後、西部生協で下宿先を探していた中で、ハイツなおかつを見つけました。

 見に行ってみると、建物も設備も綺麗で、台所・トイレ共同で家賃が20,000円と私の手の届くレベルであったことが最大の魅力でした。結局、卒業まで住まわせていただきました。部屋を見に行った時に、豪快なおっちゃん(直勝さん)とのラグビー談義や、非常に優しいおばちゃん(奥様)にも惹かれるものがありました。

 現在株式会社なおかつの社長となっている直人さんは、私が2回生の時に同志社大に行かれ、ラグビー部でバリバリにプロップをされていました。直人さんのことは、おっちゃんやおばちゃんからよくお話を伺っていましたが、私が直接お会いしたのは、数回しかなかったように思います。直人さんのその後のサントリー、日本代表での活躍ぶりを陰ながら応援していました。

 そして今は、直人さんが立派に社長業を引き継ぎ、おっちゃんもおばちゃんもご健在のご様子をWebsiteで拝見して、懐かしさが込み上げると共に、月日の経つのは本当の早いものだと感じ入りました。

 当時の思い出といえば、私はおっちゃんにお願いして、1F倉庫の空のビールケースをいくつもお借りして部屋に並べ、その上に布団を敷いてベッドにしていたこと。おっちゃんからいつも豪快な笑い声で「頑張りや」とお声がけいただいたり、おばちゃんが「怪我には気をつけや」と言ってくださったこと。毎日のように飲んで(飲まされて)帰っていたので、時々入り口付近に私が吐いた痕跡があり、笑いながらおばちゃんが掃除してくださっていたこと、などなどです。

 卒業して上京する引越の日にも、前日ラグビー部の後輩と八坂神社の花見をして飲み過ぎ、二日酔いのまま来訪した引越し業者に起こされ、おばちゃんに心配をおかけした記憶も蘇ってきました。

 当時は、ハイツなおかつ関係者の皆さんにいろいろご迷惑をおかけしたにもかかわらず、本当に良くしていただきました。改めまして、御礼申し上げます。


1987年山中湖夏合宿の写真。前列左から三番目のVサインが染宮さん

(編集:H2 奥村 健一)




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