2013年4月卒業30周年を迎え宇治Gに集合した1983年(昭和58年)卒の同期
最後列 :金治、江連、塚脇、安藤、清水、下平
最後列手前:岩田、佐々木
二列目 :沖野、川尻、峯本、谷利、中山
最前列 :佐土井、岡村、池城 (欠席:渡辺)
シーズン最終戦、東大寺尾監督の言葉
シーズン最終戦は、東京での東大定期戦、峯本、下平が怪我でチームを離れたものの、控えのメンバーや下級生のチーム力でカバー、11-0のスコアで京大Aチームは勝利、またBチームも16-4で勝利し、1982年度のシーズンを終えた。試合後のレセプションで東大の寺尾監督のスピーチがあり、今年の京大は関東の対抗戦グループの筑波大より強いとのコメントをいただいた。ある種達成感はあったものの、やはりベストメンバーで京産大に勝てなかったかという無念の思いも残るシーズンだった。ただシーズンインの際に日野の想いのためにも全力で戦おうという意思は、チーム全員で最後まで貫けたシーズンだった。
▼1982年東大定期戦(A)のダイジェスト映像はこちら(約7分)
▼1982年東大定期戦(B)のダイジェスト映像はこちら
日野の意思を想い、全力で戦い抜いたシーズン
一時はリーグ戦辞退かという声もあったが、チーム一丸となり、日野のためにもリーグ戦を戦おうということでまとまり、三好監督の元1982年度のシーズンを戦い抜いた。関西A
リーグでの戦績は3勝4敗の5位、目標としていた3位には届かなかったが、シーズン終了後No8の主将金治が、近畿大学選抜チームに選ばれ、東海地区学生選抜チームと対戦、勝利を飾った。
1982年度のシーズンの京大ラグビー部員及び関係者の想いは、その後ご両親が編纂された「若き京大ラガーの死/公嗣の記録」にまとめられている。当時の西島ラグビー部長が、京大総長にお願いした日野君の墓碑の碑文を後日ご両親にお届けしている。
「学士ラガー故日野公嗣君の知性と精魂を讃え、謹んで慰霊す」
今は亡きお父様が、この碑文を京大ラグビー部の部旗のデザインの墓碑に刻んだ。1982年度の京大ラグビー部のシーズンは、まさに京大ラグビー部全員が、日野の意思を想い、全力で戦い抜いたシーズンだった。
「若き京大ラガーの死/公嗣の記録」より
以下は日野君のご両親より、生前の日野君との思い出と、何故皆が京大ラグビー部でラグビーをしているのかを教えて下さいというご依頼に対する各自の返信の手紙の文章です。
歓迎コンパ /峯本 耕治
日野の思い出といえば、まず彼が一回生の時の新入生歓迎コンパを思い出します。その当時から、日野は大変酒に強かったが、終わり頃には、やはり足元がふらついており、二回生だった僕が日野の下宿まで送って行くことになりました。
その帰りのタクシーの中で、日野は「高校の時もラグビーか野球をやりたかったが、お父さんやお母さんに反対されてできなかった」こと、そして、「今度もまた反対されているが、どうしてもやりたくて入ってしまった」ということを話してくれました。そして、それから感情が激したのか、泣きながら「お父さんや、お母さんに悪いことをしてしまった。でも、今度はどうしてもやりたいのです」と、繰り返すのでした。
僕は、「御両親もいつか必ずわかってくださる」としかいってやれず、なぜか「やっぱり九州男児だなあ」と驚くと共に感動したのを覚えています。
また、同様にお酒がらみの思い出話になりますが、今年(昭和五十七年)の四月の円山公園の花見の席での酔ってはしゃぐ日野の姿を忘れることができません。一升びんをかかえて、「一回生、一回生」と叫びながら、新入生をつかまえては酒をすすめ、拒否されるたびに、自分でラッパ飲みするのでした。新しい後輩ができるのが本当に嬉しかったのでしょう。
日野は、練習に対しては本当に真面目な男でした。練習前には早くからやってきて、よく僕のパス練習につきあってくれ、楽しそうにはしゃいでいたのを思い出します。
練習中、大きな体で、金太郎さんのようにドタドタ走る姿と、慶応戦の試合前の練習で、僕の後ろで順番を待つ日野の緊張した顔を忘れることはできません。
僕は、高校三年間ハンドボールをやってきました。残念ながら目標であったインターハイには出場することはできませんでしたが、自分なりに自分の払った努力とその結果に満足していました。
そして、当然のように大学受験に失敗し、浪人生活に入ったのでしたが、その一年間、僕は、次にやることは勉強だといい聞かせながら、ハンドボールに向けた情熱を勉強に向け、納得できる一年間を過ごしました。
このようにして、大学に入ってきた僕にとって、初めてのスポーツであるラグビー部に入ることは、大きな、新たな賭けだったのです。
ラグビー部を志望した動機には、もちろん以前からラグビーをやってみたいという気持ちを持っていたということもありますが、最も大きな理由は、ラグビー部が強いということでした。何事でも一流の場でやりたいというのが僕の強い気持ちでした。そしてこの四年間、ただラグビーのことだけを考えてきたといっても過言ではありません。
僕にとってラグビーは、単なるスポーツではなく、この大学四年間のすべてであり、現在の自分の能力と、どこまで自分に厳しく頑張れるかということに対する賭けだったのでした。そして、引退を迎えた現在、どうしようもない寂しさを感じると同時に、この四年間を経て、心からラグビーが好きになっている自分自身に、大きな満足感を感じます。
一時は、リーグ戦を放棄しようかとまで思いましたが、本当にやってきてよかったと思います。
あの本能的に戦う中で、チーム全員が同じものを見つめ、同じことを考えていたと確信できる天理大戦のような試合を再びやってみたいものです。そして、あの大経大戦の勝利のように、チーム全員で分かち合える喜びを二度と味わうことはないでしょう。
現在、この文章を書きながらも、ラグビーをやると本当に自分に厳しく、他人に優しくなれるような気がします。
何故そうまでしてラグビーをやるのか、という質問に対する答えになるかどうかは疑問ですが、以上が僕のラグビーに対する気持ちと、この四年間のラグビー生活を終えた感想です。
すばらしい人間関係/岡崎 史裕
私は、あの試合(対慶応戦)で三番、右プロップをしていました。
試合中、ノーサイドの五分ほど前だと思いますが、怪我人がでて、試合が中断している時、日野君と少し話をしましたが、ふらふらで目がすわっていて、たいへん “ばてている”と思いました。
試合後、日野君が倒れた時も、力をだしきって倒れるなんて、男やなあ、と思ってました。一日もたてば練習にでてきて、元気にグラウンドを走っていると思ってました。のに、残念でしかたがありません。
彼は、一、二回生の頃は、スクラムもそう強くはなく、また怪我も多かったので、二軍で頑張ってました。しかし、三回生になって急に強くなり、スクラムも僕も歯がたたないほど強くなって、一軍に上がりました。夏や冬のシーズン・オフの間に一人でこつこつとバーベルをしていた成果がやっとみのったのでした。本当にこれからという時のことで……
彼が二回生の時、リーグ戦で、関西大学との試合に、私と代わって出場しました。その時もこの慶応との試合と同様に、最後のほうでは、ふらふらになってました。
彼はよく練習試合の後、スクラム・マシンの上で、一人でポッンとすわってました。
試合の反省をしていたと思うのですが、スクラムを押された時は、特にムスッとして気げんが悪かったようです。
私も今年のシーズンは、二度怪我をして、七試合ある中で三試合にしかでれませんでした。そのうち二試合は、途中で交代しました。
私に限らず、今回のシーズンは、いつになく怪我人の多いシーズンになりました。
ラグビ-は、一五人が体と体でぶつかり合って、ボールを敵のゴールにタッチ、ダウン(トライ)するゲームだから、多少の怪我はしかたないと思っています。
高校から、私はラグビ-を始めましたが、その理由は、やはりしつように勧誘されたからです。何かスポーツをやろうと思ってましたが、目が悪いので、大きいボールのラグビーボールならできるだろうと思って入部しました。練習はとてもきびしく、ついて行くのがやっとでした。
夏休みの練習では、今日一日練習したら、練習が終わった時に、キャプテンに「止める」といってやろうと思いながら練習したものでした。練習が終わって水を腹いっぱい飲むと、そんなことは全く考えず、何か元気がでて、同学年や先輩たちと笑いながら家に帰ってしまい、次の日の練習では、また「止めよう」と考えながらして夏が過ぎていったような気がします。
しかし、合宿が終わり、秋になると、もうそんなことは考えませんでした。
ラグビーもわかってきて、またラグビー部にも完全にとけこんで、その一員となってました。何かわかりませんが、ラグビー部は、止められないと思うようになってました。人間関係がすばらしい部でした。
大学でラグビー部に入ったのも、ラグビーも好きだけれど、それ以上に、ラグビー部そのものが好きだったからだと思います。
日野君は、よく金曜日に、私の下宿にきて、テレビの「ハングマン」や「必殺仕舞人」などを見たり、ステレオを聞いたりしてました。十二時頃になって、おなかがすくと、ラーメンを共に食べに行ってわかれたものです。
二、三回生の夏休みには、いっしょに若狭の海に泳ぎに行きました。
コンパや、その二次会でもよく酒も飲みました。彼は酒を大学に入って飲みはじめたらしいのですが、とても強く困ったものでした。花見のときには、一升びんを持ってラッパ飲みをして、大あばれして、他人にもラッパ飲みさせたりしてました。酒の一滴は血の二滴ともいってました。
天皇誕生日に、日の丸を立てたり、戦争になれば、真っ先に志願して国を守るために戦うともいってました。右翼というあだ名もつきました。
あの試合の前日のことですが、練習後、私と彼とが、部室に帰る途中で、私が「あした慶応にスクラム押されたら、いややなあ」というと、彼が「バーカ、一生懸命やったら、スクラムを押されようが、ぶっ倒れようがかまわない」といって歩いていったのが、心に残っています。
日野さんの思い出/伊庭 詳之
日野さんは、僕の一つ先輩で、同じプロップをやっていたので練習ではよく対面になったりしました。日野さんはどんな練習でも決して手加減してくれず、一年生の時は正直言っていやだと思ったこともありました。
本当に真面目な責任感の強い人だったと思います。それがこんな結果になってしまった一つの原因ではないかと思うと、たいそう複雑な気持ちがします。
プロップというのは、耳はつぶれるし、腰は痛めるし、足は太くなるしで、そのくせ試合では一向に目立たないといったそんなポジションで、僕なんかやり始めた当時は本当にいやでした。
日野さんはどう感じてらしたのか、今となってはわからないけれど、ただ一つ言えることは、自分が影に回ってバックスを生かすといった、そういうことがあの人の性格に大変合っていそうな気がします。
練習の後、一人で黙々とバーベルを上げてらしたあの姿が大変印象的なのです。
日野さんが亡くなられた後、僕が及ばずながら、そのあとをやらせてもらっています。
日野さんに一歩でも近づけたらと願っていますが、まだまだのような気がします。僕にはとても自分の体が破壊されるまで頑張るなんてことができるかどうか疑問です。
こんなことを日野さんにいったら怒鳴られるかもしれませんね。どこまでやれるかわからないけれど、日野さんの抜けた穴を埋めるように頑張りますので、どうか天国から見ていて、「オイ、伊庭、背中をのばせ」とか、「もっと当たってこい」とか叱ってください。
合宿での思い出/萩原 啓至
僕と同じ学科に、来年(昭和五十八年)空手部の主将になる男がいる。最近その男と話をしていて、ラグビー部はシーズンオフの間、体育館でウエイトトレーニングを行うという話題になった。空手部は体育館で練習を行うので、しばしばウエイトトレーニングをする我々と会う。
「そういえば去年の冬、毎日トレーニングルームに来てるラグビー部のやつがいたぞ」
「体の大きな顔の丸いやつだろう」
「そうそう、でかいやつだ」
「あいつは死んだよ」
彼はしきりに、あんな健康そうなやつがどうして…と繰り返していた。僕はただ、二十一年間で最もいやな思い出を思い起こさせた彼を見つめるばかりだった。
僕が日野と初めて会ったのは、一回生の春、僕が京大ラグビー部に入部したときにさかのぼる。僕はたいした勧誘は受けなかったが、同じ高校の友人が入部し、彼に京大ラグビー部の面白さを教えられ、自分自身も京大構内に貼られている「闘え、俺たちと!」のラグビー部のポスターを見ているうちに血が騒ぎだし、ふらりと入部してしまった。入部したその日、一回生はセービングの練習をさせられ、その中で、うまくないながら必死にボールに飛びついているのが日野だった。
二回生の時、春のシーズンが終わった後のことだったと思う。日曜日、僕が昼近くまで寝ていると、誰かがドアを乱暴に開けて入ってくる。
「おい、めし食おうぜ、めし」
手に大きな包みを持った日野が僕の枕元に立っているのだった。僕は電気炊飯器を持っていたので、それで彼の持ってきた米を炊いて、昼めしを食おうというのだった。僕はブツブツと(何で人のめしを俺がつくらなければならんのだ)文句を言いながら、めしを炊き、ラーメンを作った。あいつは茶碗に山盛りのめしと、衛生的とはいいかねるインスタントラーメンを、がつがつとうまそうに食っていた。あいつは食い終わると、ドタッと大の字に寝転がってしまうのだった。
僕は一・二回生のころ三軍戦に出ることが多かったので、日野と同じ試合に出たのは数えるほどしかない。日野とやった数少ない試合の中で、一つ鮮やかに記憶に残るゲームがある。それは二回生の山中湖での夏合宿の時だった。相手は名城大学の二軍であり、僕はフッカー、日野は左プロップだった。激しい雨の中の試合だった。スクラムは押しまくるのだが、守る一方で我々は劣勢だった。ミスをつかれて数本のトライを奪われ、僕たちは一つのトライもとれぬまま試合は終わった。気まずい雰囲気で、ずぶ濡れの我々は、宿へ帰るべくバスに乗ったのだが、日野は自分のプレーと試合内容に満足がいかなかったのだろうと思うが、無言のまま怖い顔をして、宿まで雨に濡れて歩いて帰ろうとしていた。試合中の日野は、本当に気力あふれんばかりだった。試合中にスクラムの組み方について話しかけても、にらみ返すだけで決して返事はしてくれなかった。
三回生になってからの日野はすさまじいラガーになった。黙々と続けたウエイトトレーニングの成果が出てきたのだと思う。時折スクラムの対面になったが、その火の出るような当たりと、鋭い押しに圧倒されて、僕などは全く歯が立たなかった。僕も必死になって立ち向かったが、勝てた覚えは一度もない。
試合や練習の後、気の合った仲間でよく酒を飲んだ。いや酒ばかり飲んでいた。酔っぱらってよく悪ふざけもした。体のでかいあいつは、よく俺の体の上に乗りやがった。全く重い体だった。
僕が日野と最後に言葉をかわしたのは慶応戦の前日だった。練習が終わった後、整理体操をしてストレッチをしている時、練習が終わった安堵感からかザワザワと無駄話をしている部員を見て、僕の後ろにいた日野は、「雰囲気悪いなあ」と怖い顔で言った。それが日野から聞ける最後の言葉になるなんて、俺は夢にも思わなかった。
日野が倒れた後、僕は楽観していた。三日もすればグラウンドに出てくると思っていた。その時には(この死に損ないが!)とからかってやろうと思っていた。月曜日の午後、図書館から出てくると、後輩の一人が、「日野さん危ないらしいですよ」という。俺は(まさかそんなことが…)と思いながら、急いで大阪の病院に駆けつけた。いつもは温和な岡崎の沈痛な表情を見て、俺は心の中に暗い雲が広がっていくのを感じた。自分の血液型がO型でないのがひどく恨めしかった。
悲報を聞いた次の日、宇治の合宿所で監督も交えてミーティングが行われた。俺はいまさら何を話し合うのかと思った。監督さんの沈んだ声を俺はぼんやりと聞いていた。周りでは平田や清水さんが声をあげて泣いていた。俺はなぜか涙が出なかった。しかしミーティングが終わった後、部屋に行って日野が着替えていたベンチに置いてあったやつのスパイクを手に取ると、むしょうに涙が出てきた。三回生の仲間とやつの下宿へ行って、主の戻らぬ部屋を見ると、また涙が出てきた。
告別式の時、初めて日野の遺体に会った。見たくなかったがやっぱり見てしまった。あれは日野じゃなかった。ひどく青白い顔をしていた。俺にとっての日野は、激しく当たってくるスクラムだった。ダミーを吹っ飛ばす当たりだった。それだけで充分だった。
今秋(昭和五十七年)のシーズンは、僕にとって最も充実したシーズンだったと思う。あの事故の後、俺は俺にとって必死に練習した。いやだったプロップもやったが、何とか押されまい、押してやろうと頑張った。大学の講義のために練習を休むこともなかった。シーズンが終わって考えてみると、心の中にぽっかりとあいてしまった穴を埋めるために夢中にやったのかも知れない。来年はいよいよ最後の年であるが、日野が俺たちに見せてくれたラグビーへの情熱の何分の一でも俺は持って必死にやりたい。その結果が日野への供養になれば幸いである。
日野なんとかいうてくれや!/森田 徹男
「もりたあ、帰り、車空いとる?」
「おお」
「たのむわぁ」
部屋の前の階段、シャワーからでてきて、タオル一枚無造作に巻いて、でてきとった。
「おれ、この車好きやねん。お前、安全運転やしなあ」
「土足厳禁やで」
「おお、しっとる。これがええねん。何かこう、えらなったような気分しよるやろ」
変な大阪弁、肩やとか足やとか腹やとか、怪我だらけの巨体をひきずって、よう車乗ってきよった。私の車の助手席は、土足厳禁にしていて、くつを脱ぐのがめんどうなので、あまりみんな乗りたがらなかった。なのに、あいつは、何か変わっていて、よくいっしょに帰った。
「おお、あれ聞こうぜ、あれ。松原みき」
「へえー、お前、あんなん知っとったん?」
「おお、あのくつみがきの歌、あれおれ好きやねん。レコード借りてきて、録音しよったんやで」
「ふーん。お!今の女の子かわいかったんちゃうか?」
「そうかなあ、俺はああいうのは好かん」
「どんなんがええねん?」
「ううん、なんかこうなあ、お前の好みみたいななあ、ああいう品のないのは好かん。真面目な感じの子がええわ」
「まあな、お前の好みは俺と正反対やな」
「ハッハッハッ」
「ハッハッハッ」
何のこともない、しょうもない話。宇治のグラウンドから時計台まで約四十分。しょうもないことばっかりいいながら帰った。あいつは練習思いっきりやるから疲れてた。本当に思いっきりやりよった。手を抜くということを知らんやつやから。そら疲れるやろうと思う。私には真似のできないことやと思う。それから雨の練習。雨はいややけど、練習が早く終わるのは、うれしいことやった。
「おれなあ、雨だけ本当好かんわ。またずれがなあ。いたいねん!お前やせとるからわからん思うけどなあ、いたいねん」
「なに?またずれ?そらお前太い太い足してるからや。ハッハッハッ」
夏の合宿が終わって帰ってきて、学校が始まったころ、車の中で、
「おまえ、勉強してるか?」
「おお、もうすぐ試験やしなあ、おれ、きのうなあ、勉強しよう思てなあ、机に向かったのはええねんけど、何かでけんでなあ、きのうは、もう寝よった」
「何考えてんねんおまえ、ほんで今日はどうすんねん?」
「今日はまあ、エンピツもつ練習して、明日は本もちょっとぐらいなら読めるやろ」
「ほんまかあ?」
考えてみれば、慶応戦のちょっと前の話やった。
あの日、あいつはいつものことながら、気合入ってた。他のみんなも私も気合入ってた。着替えてでてきて、試合球をあいつに、「ホレッ!」といって投げたら、胸のところにドスッドスッと何回も自分であててた。こいつ気合入っとんなあ、と思った。
茶色っぽい目が「やるぞ」といわんばかりだった。
そしてあの晩。
私は大阪の自宅で待っていた。
待つのはいやだった。タバコばっかり吸うてた。
電話が入った。
終わってた。
「こら日野!みとけよ!おまえの走る分ぐらいおれが走ったらあ!」
「こら!聞いてんのか?毎日風呂行けよ!シャワーだけやったらきれいになれへんぞ!」
「おいこら日野!おまえ、まだ『好かんもん』とかいうてんのんちゃうか?もうちょっと愛想ようせんとあかんぞ!下から何か上目づかいににらんでんのんちゃうか?えっ?」
「おい、こら!」
「何とかいうてみい!」
「何とかいえや!」
「何とかいうてくれや。たのむわ!ひの!」
私は中学からラグビーをやっていますが、初めての経験でした。怪我とかもう走られへんとか、足やとか手が曲がったとかいうのはよく聞きましたが、何故、私はラグビーなんかしているんでしょう?
九年もやってるというと、よく聞かれるんですが、答えは自分でもわかりません。百六十三センチ、五十六キログラムといえば、まるでラグビーをする体ではありません。でも、何やかや言って、止めようと思っていません。
実は大学に入った時、大学ではやらんとこう、と思っていたんです。が、秋になり、テレビなんかでやりだすと、どうしても、何というか、“むし”が騒いで、ついつい、入部してしまったという感じです。
私は三回なので、後一年、精いっぱいやるつもりです。そして、しんどくなったら、やっぱり、いつも思い出してしまうと思います。あいつに笑われんように、頑張りたいと思っています。
僕が何故ラグビーをしているのか/清水 浩
ある時、酒を飲みながら後輩と、なんでこうまでしんどい思いをしてラグビーを続けているのか、という話になり、僕が「結局意地じゃないか」と答えると、それまでとなりで黙っていた日野が、「最後は何かっていったら、意地しかないよ、絶対」と一言相づちを打った時のことを僕は覚えている。
ああ、こいつも同じなんだなあ、と、ふとその時思った。
日野君の御父様御母様へ
日野君も大学へ入学して、真剣に自分自身の力をかけて勝負していたのは、僕と同様、やはりラグビーだったと思います。僕は一年間早稲田に通っていました。後述の文章は、早稲田の加藤諦三先生に、何故そうまでしてラグビーをするのか、ということについて、文章を依頼されたときに書いたものの一部です。
これは、僕自身の精神の軌跡のようなものですが、ことラグビーにおいては、根本的なところで日野君も僕と同じようなことを考え、同じようなことを感じたであろう、と僭越ながら確信しております。
早稲田にいた頃の僕は、自分自身の進むべき道におおいに疑問を持ち、暗中模索の状態だった。理工学部に入学し、勉強するつもりだったが、さして勉強に打ち込むこともできず、翌年、もう一度、落ちてもともとという気持ちで京大を受け、通れば京大でラグビーをやり、落ちたら学部を文系のどこかに変更してでも、早稲田の体育会でラグビーをやろうと決心がついた頃だったと思う。「いったい何がそうさせたのか」と加藤先生に問われた時、即座には答えられなかったが、今、自分自身を振り返ってみれば、こんなことではなかったろうか。
高校時代のラグビーは、今考えてみても、かなり過酷なものだった。大学のシーズンオフなどなく、ほぼ一年中夏休みもなしで練習に明け暮れていた。進学校だったせいか、まわり中が受験受験とそわそわする中で、その重圧は感じながらも、躊躇なしに、一見すると全く逆の方向へ走っていた自分に驚く。毎日毎日、今すぐにでもラグビーを投げ出せたらどんなに楽だろう。グラウンドに大の字になってぶっ倒れてしまえば、どんなに楽だろうと思いながらも走っていた。
何が一番つらいかといえば、今でもまったく同じことだが、この一本一本のダッシュは、自分にとって、いったいどれだけのものなのか。なぜゴールラインをトップダッシュで走り抜けなければならないのか。苦しくなればなるほど浮かんでくるこの単純な問いと闘うことだ。
かつての早稲田の名選手はこういう。「早稲田のラグビーは、ゴールラインをトップで切ることの一言につきる」と。ゴールラインが見えてきて、ふっと力を抜く走りと、最後の力をふり絞って、トップダッシュでゴールを切る走りがどれほど違うかは、練習をしたことのない人間にはまずわからないだろう。
人間は誰しも強い人間にあこがれるものだと思う。もちろん肉体的な強さなどではなく、精神的な強さに。僕が早稲田にいた頃は、自分が、日一日と安易な方向へ押し流され、何一つ真剣に勝負することのない人間になっていきつつあることを本能的に感じていたのだと思う。高校時代あれだけ必死に自分自身と戦っていたことが、次第に実感として湧いてこないようになっていく自分が、たまらなくなさけなかった。もう二度とあんな苦しいことに耐えられないだろうと考えるにつけ、悲しいなどというよりは、ぞっとするほど怖かった。ある意味で、この一種の恐怖感のようなものに駆り立てられ、俺はまだできるはずだという意地が、せっかく入学した理工学部という肩書などどうでもよい、と決断させたのだろう。
大学のラグビー部に入って、来る日も来る日も練習をただこなすような生活をしていると、大学生にまでなって、毎日毎日こんなことをしていていいのだろうか、何かもっと別にやらねばならぬ有意義なことがあるのではないだろうか、としばしば頭を悩ました。一日のうちの真ん中に、でんと腰をすえた練習というものが、ある時期の自分にとっては、まったく無味乾燥なもので、僕の自由のほとんどすべてを奪ってしまう大きな重荷に思えてしかたがなかった。部員以外は全く誰もいないグラウンドで、果てしなく続くかのように思えてくるダッシュやスクラム。このエネルギーをアルバイトにでも使えば、何百万という金にもなるだろうし、この時間に、巷の大学生のように女の子でも追いかけていれば、楽しいだろうなどと考えるにつけ、ますますあの一本のダッシュ、一本のスクラム、一本のタックルは無味乾燥なものとなり、練習はまさに不合理の集積のように思えてくる。まったく同好会でテニスでもやっていれば、もう少し華やかな青春をおくれるはずなのに、ラグビーは損だ、部員の愚痴はいつもこれだ。
一昨年山中湖での夏合宿で僕は貴重な体験をした。ちょうど山中湖では、慶応が合宿をしており、雨続きの田んぼのようなグラウンドで練習試合をした。ここ十年くらい善戦するものの決して勝てなかった慶応に、あの時は一軍も二軍も完勝し、OB連中は大はしゃぎだった。しかし、僕が強烈な印象を受けたのは、その練習試合の後の慶応三軍と、慶応若手OBの試合だった。
合宿も半ばを過ぎており、現役の足はまるで鉛のように重く、若手OBに簡単に突破され、はじき飛ばされ、どろ田のようなグラウンドに無惨に倒れるばかりだった。そんな中に高校時代の後輩も混じっていた。はじき飛ばされては起き上がり、またタックルに走る。OBバックスが独走態勢にはいる。誰が見ても、現役連中の鉛のように重たい足では、追いつかないことは一目瞭然だが、足を引きずりながら、あるいはびっこを引きながらも追う。技術的にも体力的にも数段勝るOBは、そんな現役を徹底的にたたきのめす。トライの山が築かれ、ゴールに集まる現役連中の中に、時おり「どうした現役」と、低く鋭い声が飛ぶ。体はもう全く動かないのだが、同じラグビーをしている僕には、彼らの気迫が伝わってくる。唇を嚙み締め、OBをにらみつける十五人のどろ人形の視線は鋭い。あのタックルが嫌いだった後輩が、何度はじき飛ばされながらも、また立ち上がりタックルに走る。
観客など皆無の山中湖のグラウンドで、僕は今まで見たことのなかった、というよりは見えなかった真のラグビーを見せられたような気がした。それはもしかしたら、慶応の現役連中のあの無惨な、ぶざまに近い姿に自分自身を見たからかもしれない。そして、今まで全く無駄にすぎないと思えた様々な練習の一つ一つが、この時を境に本当に価値あるものに逆転したような気がする。やっぱり自分で自分をどれだけ潰せるかが勝負なんだ、とつくづく感じた。
いったい無駄とは何だろう。ラグビー一試合八十分間のうちで、一人一人がボールを持って走るのはせいぜい一分だという。残りの七十九分間は何をしているのだろう。それは万が一のための無駄走りだろう。だからこそ、彼らは走った。
自分の足では到底無理とわかっていても追う。泥沼のようなグラウンドに体を張って飛び込むのだ。いったい、この一本のダッシュがどれだけのものになるのか、問う以前に走ることが最も大切だということが本当にわかるまで、僕は何年かかったのだろう。
考えてみれば、このようなさもあたりまえの単純な問いを問い続け、挫折を繰り返して、またさもあたりまえのありふれた回答にたどりつく。しかし、この答えは僕にとって決してありふれた既成の答えではない。莫大な労力と時間をかけて探り当てた、自分自身にとって、一つの普遍的な回答だと思う。「自分自身に勝て」、こんな言葉は誰でも知っている。しかし、自分自身に勝てという言葉を知っているだけで、どうして自分自身に勝てるだろう。地べたに這いつくばった自分のぶざまなありのままの姿を知るときの屈辱感を乗り越えて、自分自身を徹底的につぶすことを教えてくれたのは、やっぱり僕にとってはラグビーしかなかった。
ラグビーなどやっていると、体は頑丈で根性もありそうだし、本当に強い人間にとられがちだが、僕達ほど自分自身の弱さ、ふがいなさを知っている人間も少ないだろう。毎日毎日の練習で、あるいは試合で、自分の意志の弱さふがいなさを思いしらされる。自分自身に勝つことは難しい。あまりに苦しい。もし僕たちが本当に強いとしたら、そんな自分の弱さをいやというほど知っているところかもしれない。
長々と思うままに書きなぐってきたが、以上のことは、僕自身の経験とそれに基づいた考えであり、個人的な理屈に過ぎないかもしれない。ぶっちゃけた話、ラグビーというスポーツは、本当に奥が深いし、これ以上のスポーツは無いと確信しているからやっているのだろう。そしてラグビーをやっている人間にいやらしいやつはいない。
昨年は、釜石で新日鉄釜石と夏合宿をしたが、森さんなど、今や全日本のキャプテンだが、まったく偉そうに振る舞うところなどなく、風呂の中ではまるで今流行のコメディアンのような、てんで気さくな方だった。そんな人間になれれば本当にいいなあ、とつくづく思った。
僕がラグビーを始めたのは、テレビであの黄金時代の早稲田の試合を見たのがきっかけだった。昨年春、準公式の定期戦とはいえ、十八年ぶりに早稲田に勝った。早稲田の力があんなものではないことは十分承知だが、ああこんなものかと思ったし、やっぱりやつらも人間なんだなあ、とも思った。
最近では、前日本高校でならしたような人間が、ほとんど明治や同志社や早稲田へ行く。去年は、まったく高校時代無名の人間ばかりだった慶応が、全日本高校でそのままチームを作ったような明治に勝って対抗戦を制覇した。本当に感動したし、やつらこそ男だと思った。僕はあと二年のうちにあんな試合ができたら、本当に死んでもいいと思っている。
日野君の事故があって以来、僕がちょうど三回生の春に書いたこの文章を読むたびに、本当に複雑な気持ちになります。御父様や御母様の深い悲しみなど僕には推し量るすべもございませんが、たった一個の楕円球に、僕と同じように本当に純粋にすべてをかけていた、日野君の気持ちを少しでもわかっていただければと切に思っております。
日野に教えられたこと
このボールに名前を書いてくれ、日野と一緒に燃やすんだと金治に言われ、ラグビーボールとマジックを渡された時に、僕は本当に泣けて泣けてしようがなかった。まだあの吉田神社のかどの辺りから、あいつが“のそっ”と現れて、例の不機嫌そうな顔をして、「こんちわ」と僕に挨拶をするような気がしていたけれど、これで、もう本当にあいつは、このボールと一緒にこの世界から消えてしまうのかと思うと、とめどなく涙があふれた。
日野がまだ二本松にいた頃だったか、やっとラグビーも分かってきて、特にあいつにとっては、スクラムというものの重要なことがわかってきた時だったのだろう。勝った試合でもスクラムを押されたような試合では、試合の後、グラウンドの隅のスクラムマシンの上で、一人ぽつんと憮然たる表情で座っていたあいつの姿を今も思い出す。
一直線で、手を抜くということを知らず、常に自分の弱さに対する怒りを持っていたやつだった。だから僕は、あいつの普段の仏頂づらは、自分自身への不満の思いが顔に出ていたような気がしてならない。そんな憤りを、毎日毎日の練習でも一本一本のスクラムに思いきりぶっつけていたのだろう。一緒にスクラムを組んでいた同僚からは、その激しさ故、日のは“特攻隊だ”などと冗談で言われていたが、きっとあいつは、自分の体を思いきりたたきつけることで、自分自身を叱咤激励していたのだろう。そんな日野を見ていて、あいつは強くなる、上級生の間では、誰もが確信していた。そして、事実日野は年ごとに強くなった。僕たちにしてみれば、本当に頼もしいやつだった。
ここ数年、京大のフォワードは、関西Aリーグの上位のチームに比べると、やはり弱く、特にスクラムが欠点だった。バックスの僕などにしてみると、本当にスクラムさえ止まってくれたらと祈るような気持ちでいっぱいだった。スクラムさえ止まってくれたらどうにかなる、いや、どうにかしてやると。
そしてそんな僕の願いが今年こそかなえられると、今春の練習試合で期待できた。昨年、スクラムで大敗した京都産業大学には、スコアでは負けたものの、最大の不安であるスクラムは、まったく押されなかった。丸紅や早稲田の試合でも、本当に安定したセットスクラムだった。今年は行けるとひそかに期待していたのは、僕だけではなかったろう。
ラグビーが命がけのスポーツだとは思わない、また命をかけて戦うべきスポーツだとも思わない。けれど、やはり、来る日も来る日も、もう走れないと思えるほど走り続けるのは、勝ちたいから、負けたくないからだろう。花園や西京極で、走って走りまくって、同志社や慶応や天理に勝てたのなら、本当に何もいらないと思う。
僕たちは、くじけそうになる自分自身に、そしてチームメイト達に、「ぶっ倒れるまで走れ」と“檄”をとばす。それは、倒れるまで走るということが、僕達ラグビーをする人間の、ある意味では到達しえない理想だからだ。日野は、あの試合の中で、いったい何度自分で自分にその言葉を叫んでいたのだろう。逃げ道はいくらでもあったのに。その一本のスクラムを押されないがために、その一本のラックのボールを取らんがために、あいつはきっと何度も自分自身を鞭打ったにちがいない。毎日毎日宇治のグラウンドで、負けたくないの一念で、日野と走り、共に戦った。たかがラグビー、人はそこまでやる必要はないというだろう。しかし、ちがう。あいつは京大フィフティーンのために戦った。
走り続けるその足を止めてしまえば、あのグラウンドに倒れてしまえば、助かったかもしれなかったのに。日野は僕たちフィフティーンのために、最後まで戦い、自分自身の限界を突き抜けてしまった。決して逃げることなく。あいつの最後の勇気と力を、僕はあの九月十五日、長居競技場で教えられたはず。
僕の一生で、二度とこれほどの強さを、目の前で教えてくれるような人間は、出てこないだろう。僕は日野を一生忘れない。
(文責:清水 浩)
「京大ラグビー部1982年度の戦い」のコンテンツ制作チーム
金治伸隆、峯本耕治、清水浩、池城俊郎、佐土井俊之、下平憲義、岩田天植
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