"To The NEXT 100 Yrs" 次の100年へ。
OBから現役世代へ、さらには未来の京大ラガーに向けて幅広く未来を語り、繋ぐ。リレー対談形式のインタビューコンテンツです。
京大ラグビー部員の兄を持ち、1回生からレギュラーを獲得、4回生では主将と、本田剛久さん(H10卒)、榎原友樹さん(H13卒)は多くの共通点を持つ。同時期にプレーをして互いを熟知するお二人に、市口順亮監督(S39年卒)のもとで取り組んだ「自由かつ最先端のラグビー」について語っていただきました。
――簡単に自己紹介を
(本田剛久さん 以下本田/敬称略)大阪府立北野高校、1浪してH6に工学部土木工学科に入学した。市口監督になったころだ。大学院で地球環境工学を学び、三井不動産に就職。2019年からNYの現地法人に駐在している。アメリカのオフィスビルや住宅開発事業への新規投資を担当している。ラグビーはもっぱらテレビ観戦。アメリカには日本人のラグビーチームがいくつかあって、NYのチームにも顔を出した。稲葉裕さん(H2卒)とも一緒だった。会社のラグビー部では30歳代後半までやったが、いまはプレーは引退。できるような体じゃない。橋下徹さん(北野高校ラグビー部出身、元大阪府知事)の5期下になる。当時、大阪の公立高校は強かった。
(榎原友樹さん 以下榎原/敬称略)本田さんが4回生の時に1回生。同じポジションだったこともあり、かわいがってもらった。ラグビーは大阪府立千里高校で始めた。父親が北野高校でラグビーをやっていた。花園で活躍する北野に憧れがあった。こんな人たちとラグビーやりたいな、とずっと思っていた。兄の榎原巨樹(H10卒)が京大でプレーしていたのをきっかけに、京大に進んだ。コンサルタントから2012年に独立し、イーコンザルという会社を立ち上げた。実践もしたいと2020年に地域で電力を地産地消する会社もやっている。ラグビーはかなり離れてしまった。
▼「北野ラグビー⇒京大の本田さん/北野に憧れてラグビーを始めた榎原さん」動画はこちら
――主将として一番印象深い試合は
(本田)Bリーグに昇格した年だったので、まずBをどう維持し、上位に食い込むか。天理大や大阪教育大にどうやって勝とう、と考えていた。でもやっぱり東大戦かなあ。最後までリードしていて、残り10分ぐらいでこちらの足が止まった。1トライ差で負けた。自分の手が届かなかったタックルがあって、トライされた。10年以上負け続け、どうやって勝つか、ともがいていた中で、やっと手が届きそうになった年だった。アフターマッチファンクションで「一年後に後輩たちは勝ってくれるはずだ」とあいさつした。それを後輩たちがかなえてくれた。
平成9年(1997年)12月21日、京大・東大定期戦。京都大A 29-34 東京大Aで惜敗。
(榎原)ぼくらの代は東大が強いと言われていて、東大戦は最後ワンプレーで逆転した。勝ってうれしかったよりも、「やっと終わった」「きつかった」という気持ちが強かった。実は、チームの組織運営がうまくいかなかった。頑張りすぎた。ぐいぐい行こうとしてばらばらになってしまった年だった。それまで3年間は京大ラグビーが好きで楽しくてしかたなかったが、4回生の1年間は精神的にしんどかった。
(本田)キャプテンはやっぱりしんどかった。3回生までは楽しい。自由さがあった。責任もないし。合宿が終わって絶好調だったが、ぎっくり腰で戦線離脱した。
(榎原)リーグ戦開幕前の同志社との定期戦に本田さんが出られなくなり、エイトとして初めて先発した。行きの車の中で、吐きそうなぐらい緊張していたが、先輩たちは談笑していたのが信じられなかった。この試合も印象深い。
平成9年(1997年)9月7日榎原さん(1回生)のデビュー戦となった同志社大との定期戦。(京大 14-45 同志社大)
(本田)復帰して出た天理大戦は前半途中までいい試合だったが、同期の井黒忍(H10卒)の頭とぶつかって出血し、途中退場で負けた。
(榎原)市口監督のラグビーに触れて、「ラグビーってこんなに自由なんや」と思った。一番最初の練習でボールを渡されて「流れろ!」と言われた。「縦にまっすぐ走れと言われていたのに、これまでの常識と違う」「意味わからん。この人、ラグビー知らんのかな」と思った。でも春の大教大との練習試合で大勝し、「このラグビーすげえ」と好きになった。
(本田)当時、フラットパスとか、あんな先進的なラグビーをしているところはなかった。でも、そこに至るまでの3年間は、戦術的に相当もがいていた。横に流れてフラットパスという戦術が始まったのは、1学年上の星野耕平さん(H9卒)の代だ。勝山義博さん(H8卒)の時はショートパスをどんどんつないでいた。友樹はいいタイミングで入学したよ。FWもスピンパスの練習をした。同期の野田幸嗣(H10卒、SH)や、縦に強い吉田学(H12卒)のスタイルにぴったりとはまった。
(榎原)野田さんがアウトサイドセンターあたりまで流れて走っていた。どこまで行くのか、という感じだった。見ていて面白いラグビーだった。4年間やっても市口さんのラグビーが理解できなかったが。
(本田)市口さんは単にまっすぐ突っ込む選手に「バカヤロー」と怒っていた。
▼「東大にどうやって勝つんだ?」動画はこちら
――主将当時の思い出
(榎原)本田さんは、この人しかいない、とだれもが認めるキャプテンだった。精神的にもプレー的にも支柱だった。ぼくも自分の考えを前に出してぐいぐい引っ張る、そんな主将にならないといけないと考えていた。
(本田)物事の進め方が強引で、ついてきてくれない人もいたかな、とは思っている。でも、仕方がないのかな、とも。後がない4回生と下級生では、どうしても思いにズレが出る。
(榎原)50人、60人の組織で同年代の心が離れていく、という経験をして鼻をへし折られたことが、ぼくの人生にとってはよかった。ほかの選手へのリスペクトとか、話し合う雰囲気を自分からつくる大事さを学んだ。
(本田)頼るところは同期しかなかった。副将の木内大介、主務の田村良介がいたから助かった。田村には無茶を言いまくったが、受け止めてやってくれた。本当に感謝している。三役は孤独だった。
(榎原)ぼくが主将になった時に、後輩6人が辞めると言ってきた。説得して半分ぐらいは残ってくれた。
(本田)たまたま僕らは2人とも1回生からレギュラーで出たことがあった。ぼくが1回生の時は深津光生さん(H7卒)が主将で、慶応大に定期戦で勝った。その試合にも出ている。自分の代では主将は同期で話し合って決めたけど、思い起こすと結構あっさりと決まった感じがする。いまだにぼくのことを「キャップ」と呼ぶ同期もいる。
(榎原)僕の代は割れた。松永大輔とどっちにするか、となって。圧倒的な求心力はもともとなかった。
▼「本田主将(H10)と榎原主将(H13)、当時の思い出」動画はこちら
2022年2月6日 Zoomにて収録。
聞き手:麻植渉(H2/SO)奥村健一(H2/LO)西尾仁志(H2/CTB)
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