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079: 1971年シーズンを振り返る〈前編〉19年ぶりの慶應戦勝利と全国大学選手権出場(S47 前田眞孝/平岡康行/湯谷博/S48田代芳孝/石田徳治/S49清(旧姓吉川)史彦/S50 水田和彦)

更新日:2022年5月9日

 京大ラグビー部100周年を迎えるにあたって、S46年のシーズンを振り返ってみようと、当事者数名でZOOM座談会を開催した。

メンバーは、前田眞孝、平岡康行、湯谷博、田代芳孝、清(旧姓吉川)史彦、水田和彦の6名。




プロローグ:1971年12月19日


 2021年12月、東京大学との99回目の定期戦が行われた日からちょうど半世紀遡る1971年12月19日、秩父宮ラグビー場のスコアボードを背にして会心の笑みを浮かべる京都大学フィフティーンの姿があった。この日京大は、慶応義塾大学との定期戦で19年ぶりの勝利を飾ることができた。前列には、盾を持つ前田主将を中心に4回生が並ぶ。後列には左端の当時1回生の水田和彦(現KIU R.F.C.会長)をはじめとする下級生達。改修前の秩父宮ラグビー場のスコアボードには京大32対慶応24の数字が見える。


 翌日の毎日新聞は、後半32分のトライで京大が鮮やかに逆転したことを伝えている。

 この年の京大は関西Aリーグで同志社大学、天理大学に次ぐ3位の成績を残し、中京大学との決定戦を制して全国大学選手権大会への出場を決めていた。次は正月元旦の秩父宮での早稲田大学との対戦が待っている。








 1972年元旦の秩父宮。試合前の緊張を伝える写真が残っている。

この試合で京大は9-89の大差で敗れた。なぜ、大敗したのか?今でも当時のメンバーが集まればこの話題で盛り上がるのだが、ともかくこの年の早稲田は強かった。スクラムハーフに宿澤広朗氏(故人、元日本代表監督)を擁し、走力に勝る早稲田は、縦横無尽の攻撃で京大の防御陣を次々と突破した。そして学生選手権を制し、日本選手権でも社会人代表を下して日本一となった。



そうした最終戦の苦い結末ではあったが、振り返れば、1971年シーズンは京大の100年の歴史の中でも特筆すべき結果を残したシーズンと言えるのだろう。



1971年シーズンはどんなシーズンだったのか


 どんな試合が印象に残っているのだろうか?


 1971年シーズンの主将の前田。1回生の時、第5回大学選手権の対中央大学戦にスクラムハーフとして出場しているが、このシーズンでは同じく4回生の湯谷とともにセンターを組み、「京大スタイル」のバックス攻撃でライン突破の原動力となった。

 印象に残っているのは、リーグ戦での全国大会出場のかかった大阪経済大学や近畿大学との試合という。田中仁主将の率いた前年のチームが、実力ありと言われながらも勝てなかったことへの雪辱、という想いだった。


 次に、副将のフォワードリーダーの平岡。通称“番長“。京大一の巨漢であり、リーグ戦ではNo8で持ち前の突進力を発揮していた。思い出に残る試合は、春の定期戦で手応えを感じた同志社大学との試合という。試合後、監督役の星名先生(後述)から、「全国制覇を狙え」と発破をかけられた。その大学選手権の早稲田戦ではスクラムの強化の柱としてプロップの3番に起用されたが、相手の強いスクラムに「何をやっているかわからないほどボロクソにやられた」記憶が蘇る。


 もう一人の4回生、湯谷。小柄ながら、厳しいタックル、流し目で相手の裏をかくスワーブなどの得意技で、不動のセンターとして活躍した。印象に残る試合は、やはり秩父宮での慶応戦。夕闇迫る後半は、宇治グラウンドでの練習と同じような雰囲気で身体もよく動き、対抗戦のゲームを心ゆくまでエンジョイしたという。


 3回生では、田代と石田が早稲田戦に出場していた。田代はシーズンを通してフランカー。前田、湯谷がラインブレークした時に、真横にフォローしてパスをもらうこと、ボールをもてばFWの要となって生きたボールを出すのが身上だった。同じく3回生の石田徳治は、長身ながらスクラムの柱として早稲田戦ではプロップの1番を務めた。スクラムで押し込まれた記憶はないが、早稲田の走力には兜を脱いだという。


 清史彦は、2回生スタンドオフ。変幻自在のパス、ラン、キックで相手を翻弄した。2年後、4回生の時は主将としてチームを率い、同志社が不慮の事故で不在となる中、関西Aリーグで2位となり、自身2度目の大学選手権出場を果たしている。






 水田和彦は1971年シーズンの初めから1回生でフルバックを任され、正確なキャッチングやプレースキックに定評があった。残念ながらこのシーズンは東大戦で負傷し、大学選手権への出場を逃した。しかし、彼はその後、3回生の時の早稲田戦と、主将を務めた4回生の時の明治戦と2度の大学選手権への出場を果たしている。





星名秦の指導


 1971年シーズンを振り返るにあたって、京大の大先輩であり、日本のラグビー界に大きな足跡を残した星名秦(京大1928年卒)の存在を抜きに語ることはできない。

 星名秦は1928年に早稲田を破って全国制覇した時の京大ラグビー部の主将。ポジションはセンター。卒業後満鉄に就職し、戦後、帰国して同志社大学の工学部の教授となり、そこで同志社大学のラグビー部を指導した。後に同志社を日本一に導いた監督、岡仁詩も星名秦の薫陶を受けた一人である。その星名が、請われて京大ラグビーの指導に直接関わるようになったのは1960年のシーズンからだ。1966年からは同志社大学の学長という要職にあったが、三宅八幡の自宅から当時の練習が行われていた農学部グラウンドに足繁く通い、京大の指導に当たった。ラグビー部の専用グラウンドができた宇治移転(1967年)の後もOBの運転する車で、また後には運転免許を取得し自ら運転する車で宇治に通い、京大チームを熱心に指導した。


 星名秦のことを選手達は、星名先生または単に“爺さん”と呼んでいた。ご本人も監督と呼ばれるのを嫌って、単に一人のOB として居るだけ、と言っていたが、その指導は徹底していた。毎日の練習には誰よりも早くピッチに立ち、自らホイッスルを吹きながら、海外の文献から仕入れ、咀嚼し、独自の考察を加えた様々なプレーを実地で示し、京大ラグビーはかくあるべし、と教えた。




 そういう星名秦の直々の指導の下で、京大は全国大学選手権に3回出場している。

1963年に始まった大学選手権は、当時、関東4校、関西3校、九州1校の計8校の代表校で争われるトーナメントであったが、京大は1965年度の第2回大会、1968年度の第5回大会に出場し、そしてこの1971年シーズンの第8回大会が3回目の出場であった。従って、このシーズンを振り返ることは、星名秦の教えたラグビー、星名秦の指導によって形作られた“京大スタイル“を振り返ることにもなる。



(文責:田代 芳孝)


シーズンの最後を飾る1972年1月23日の全日本学生東西対抗には、前田 眞孝と平岡 康行の2名が出場した。


「1971年シーズンを振り返る」のコンテンツ制作チーム

S47 前田 眞孝/平岡 康行/湯谷 博/S48田代 芳孝/石田 徳治/S49清(旧姓吉川)史彦/S50 水田 和彦

(2021年12月21日ZOOMにて)




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