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094: 星名ラグビー1期生の回想(下)ハイスピードラグビー(S36 和田 文男・元KIU R.F.C.会長/元日本ラグビー協会副会長)

京大ラグビー部の中興の祖、星名秦(1928年卒)の薫陶を受けた1期生、和田文男・元KIU R.F.C.会長・元日本ラグビー協会副会長(1961年卒)に当時のエピソードと、これからの京大ラグビーについての話を聞いた。


▼和田さんインタビュー動画「これからの京大ラグビー」はこちら


――星名ラグビーとは


 FWからすばやく球を出し、BKでボールを速く遠くに散らして、ディフェンスの薄いところを攻める。ルールを徹底的に研究されていた。あいまいなところは英国協会へも問い合わせて、日本協会での解釈の統一をはかられた。その一方、京大に対してはルールの許す範囲で使える戦術や技術を編み出し、導入した。


後列左から 越田、黒瀬、星名監督、和田、野田(重)。前列左から、松原・鈴木・野田(伸)、和田野(敬称略)


――例えば


 当時、同志社のFWは強力だった。力学的に設計図を描いて相手が押せば横走りする組み方を考案され、同志社は押すのをやめた。スクラムでフッカーが敵ボールを獲ることを指導された。そうすれば、浅いラインで素早く回せて、バックスとしてはありがたかった。現在もそうだが、ラインアウトの投入はフランカーからフッカーに変えた。



――スウィングパスも導入した


 真正の星名流は、ボールを内側で受け、直ちに外にステップして対面を抜き去る。しかし、極東五輪の五種競技優勝の星名さんにしかできない。左CTBだった私は、SOが右CTBにパスする姿勢に入った時に軽く内側にステップし、パスを受けるときに思い切って外に流れていた。明治のディフェンスが素直で抜きやすかったが、そのあとに囲まれて強烈なタックルをくらったこともある。



――原書も取り寄せた


 娘さんが英国に留学していて、どんどん送ってもらっていた。その中の「ハイスピードラグビー」を分担して翻訳したことがある。「君らの訳はあてにならないねえ」と言われた。世界のラグビーは、単純にスクラムから外にまわすのではなく、NZですらポイントをつくって次の攻撃をねらうような形に変わっていた。15人がマスで技を磨けば、平均20貫(75キロ)が外国の28貫(105キロ)とも戦えるという信念を持たれていた。


星名監督の理論「ハイスピードラグビー」を図式化して、昭和35年(1960年)ごろ農学部グラウンド脇、部室の壁に表示してあった。


――社会人の胸も借りた


 伊丹の自衛隊をよく京大に呼ばれた。同志社人脈をたどって、近鉄と練習するために大阪の花園へも行った。当時は全盛期。坂田(好弘=元日本代表)がいて、夜勤だったのだろう、「坂田、ただいまから勤務に行ってきます」と抜けて行った。



――いろんなことを試していた


スクラムの組み方など、いろんな戦法を京大で試して、通用するようなら同志社で試し、そこでも通じるなら近鉄にもっていった。一橋との試合で、「一切無言でやってくれ」と言われたことがある。サインプレーがどのぐらい体得できているか試されたのかもしれない。70対0で勝った。のちに会社に入ってから、一橋出身者に「気味がわるかった」と言われた。



――指導の結果は


 ゼロから砂の如く指導を吸収することに徹した。最初の年は、関西で2勝。「ひ弱いけど均整の取れたチーム」「ユニークなラグビー」との評価を得た。チームに活気が出て、選手には新たなチャレンジへの意欲が生まれた。我々の次の代は星名ラグビーをAチームで経験した者が多く、一段と強く面白いラグビーへの発展が始まった。


昭和35年(1960年)9月25日、対甲南大学戦の新聞記事。京大(20 対 8)甲南大学で勝利。


――どういう指導者だったか


 教育者としての一面が強く、学生への関心と面倒見の良さは抜群だった。部員との適正な距離を保ちながら、365日密着指導された。一つのプレーを体得させるのに、どれほど時間をかけたことか。現在、こんなに時間をさける指導者を得ることは難しいだろう。いまリーグワンでも指導者のほとんどが外国人。どう指導者を育てるかの問題は大きい。


星名ラグビーに関して和田さんがまとめた感想メモ
星名ラグビーに関するメモ
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――未経験者を生かした


 星名さん自身、三高に入ったころは陸上競技が中心で、徐々にラグビーに重心を移された。その経験から、高校で経験がなくとも、なにか潜在能力があれば、指導と練習次第で本物のプレーヤーになれるとの確信を持たれていた。そのような選手には懇切丁寧な指導をされた。いまも経験者の入部勧誘と同等以上に未経験者を勧誘してほしい。まったくの素人でも3回生になるころには、使える人材に育つものだ。



――現役のみなさんに


 みんなでどういうラグビーをするのか、徹底的に話し合い、目標をセットしてほしい。そうしてマグマがたまってきたらチャンスはある。



2022年3月17日

取材:白石良多(S54/WTB)/夏山真也(S54/NO8)/真田正明(S55/PR)/西尾仁志(H2/CTB)



▼星名秦さんのプロフィール

1904年生まれ。旧制三高から京都帝大工学部。1928年に香山蕃の指導のもと初全国制覇したときの主将。極東オリンピックの五種競技で優勝した。満州鉄道に就職、戦後は同志社の教授から学長に。同大ラグビー部も指導した。日本協会でルールコミッティ委員長などを務めた。米テキサス州生まれで、テキさんと呼ばれた。



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