073: 「AABC➚B」これが平成2年卒の4年間〈後編〉(H2 溝口 正人・京大ラグビー部監督)

 現・京都大学ラグビー部監督の溝口 正人氏(H2年卒)に、現役時代の思い出などを振り返ってもらいました。(京大ラグビー部90周年史より)

また、2021年12月に惜しくも逝去された同期・坂口誠さんへの追悼文(H2年卒 澤秀樹・文)もあわせて掲載します。




慶應大との定期戦で完敗


 リーグ戦開幕を間近に控えた秋の日、慶応義塾大学との定期戦が宝ヶ池球技場で行われた。1年生の時こそ、大きな点差はあけられなかったが、2・3年の時はぼろ負けで、この三年間まだ一度も慶応からトライを奪えていなかった。試合前のロッカーで、三好監督から「トライ3本取れれば、勝負になる!」と檄をとばされ試合にのぞんだ。結果は前半の最初に2本のトライを奪ったものの完敗!とにかく慶応のスクラムは強かった。このスクラムの負けがFWの足を奪い、BKの攻撃力を奪い、そしてみなの心を奪い、ディフェンスが崩壊した。後で振返ってみても、この試合が唯一のぼろ負け試合となった。そして、リーグ戦開幕前にセットプレーの大切さをあらためて教えられた。


平成元年(1989年)9月17日、京大 VS 慶應大学定期戦での集合写真(宝ヶ池球技場)
慶應大定期戦試合前の円陣。溝口主将からの最終確認。
対慶應大定期戦。2トライを奪うも、13対62で完敗。


リーグ戦開幕と同志社大との定期戦


 リーグ戦も始まり、私たちは順調に勝ち星をかさねていった。FWは慶応戦の反省をふまえセットプレーの安定を、BKはその展開ラグビーの精度をあげていった。そして、リーグ戦も後半のころ、亀岡の球技場で同志社大学との定期戦が行われた。

この試合は取られれば取り返す、いわゆるシーソーゲームとなった。スクラムトライもとった。余談ではあるが、このスクラムトライ後の同志社のスクラムは、あの時の慶応よりも強かったと、いまでもFWの連中は語っている。

 後半の途中、カウンターアタックからトライを奪い、この試合はじめて京大がリードした。関西のチャンピオンチームがCリーグのチームにリードされたのである。敵の焦りを感じた。もう1本とれば勝てる。しかし、そう簡単には勝たせてもらえなかった。自陣10メートル付近からのPGをたてつづけに2本決められ逆転される。そして残り10分を切った時、再度カウンターアタックからパスをつなぎ、最後は私自身が敵ゴールラインに飛込み、再逆転のトライ!がしかし、ラストパスがスローフォワードの判定となり、このトライは幻となる。あまりの大歓声にまったくレフリーの笛が聞こえなかった。その後、膠着状態が続き、最後はマイボールスクラムからの球出しに手こずりノーサイド。大金星のチャンスを逃してしまった。

 この試合にはアフター・マッチ・ファンクション(試合後の交流会)でもいくつかの思い出がある。何人もの同志社の選手、関係者から「試合中、本当に負けると思った。」と同じ言葉をかけられた。その度に、誇らしい気持ちと、反面チャンスを逃した悔しさとが交互に湧きあがってきた。また、京大のFWの面々からは「あの時、BKに出せさえすれば…」と、最後のスクラムからボールを出せなかったことを悔いる声を何度も聞いた。そう、FWのみながBKにボールさえ出せば何かやってくれると信じてくれていたのだ。試合には負けたものの、本当にいいチームになったと実感した瞬間であった。

平成元年(1989年)11月3日、同志社大学との定期戦(亀岡グラウンド)
対同志社定期戦。幻のトライ(スローフォワード)で惜敗。(15-19)

▼1989年度・溝口組の定期戦ダイジェスト動画(立命館大、慶應大、同志社大)




入れ替え戦


 冬、リーグ戦全日程を終え、私たちは全勝でCリーグを制した。後は入替戦でこの一年間やってきたことを出し切るだけである。自分たちの力を出しさえすれば、必ず勝てると信じてのぞんだし、驕る気持ちもなかった。

しかしながら、試合は拮抗した。相手の激しいタックルの前になかなか得点できず、逆にワンチャンスをモノにされ、後半の残り10分の時点で、スコアは10対10の同点。不謹慎な話であるが、私自身は『もし勝てなかったら、留年してもう一年ラグビーをやろうか…?』と考えた瞬間があった。

 その後、持前の鞭がしなるようなラインアタックではなく、お世辞にも上手いとはいえないような球回しで決勝のトライを奪うことができ、勝利!

 何とか、Bリーグ復帰を決めることができた。この時のトライシーンはビデオで何度も見たが、プレイヤーをはじめ、周りの者がみな両手を突き上げてジャンプしていた。人は本当にうれしい時、両手を突き上げて飛び跳ねるものだと、このとき知った。そして、私自身もこれで卒業できると心底思った瞬間でもあった。

C→Bへの入れ替え戦。対大工大戦。16-10で辛勝。

▼1989年度・溝口組の入れ替え戦ダイジェスト動画(京大 16 VS 10 大工大)




 以上、平成2年卒の最後の一年を私のいい加減な記憶をもとに振返ってみた。この文章を書きながら、一緒にグランドで汗を流し、一緒に飯を食い、酒を飲んだ先輩・後輩・同期といった仲間たちの顔が次々に浮かんできた。


また、みなと一緒に酒が飲みたいなぁ。

そして、一番の酒の肴は、やっぱり“ラグビーばなし”なんだろうなぁ。



H2年卒・H1年度主将 溝口 正人(京大ラグビー部九十年史より再編集)


※編集部補足

S63年度の入れ替え戦は、Cリーグ降格「京大 10-16 大工大」

H 1年度の入れ替え戦は、Bリーグ昇格「京大 16-10 大工大」


平成元年(1989年)6月18日、成城大定期戦34-6で勝利。(宇治グラウンド)

※平成2年卒坂口誠さんは2021年12月に御逝去されました。京都大学ラグビー部一同、心より御冥福をお祈り申し上げます。(上記成城大定期戦写真、後列左端が坂口さん)





坂口誠君(平成2年卒WTB)を偲んで


平成2年卒 LO&No.8 澤 秀樹

(学士ラガー倶楽部 副幹事長)


 頑固ジジイならぬ「元気ジジイ」。それが、坂口誠の学生時代のあだ名だった。「元気」は、練習が終わっても一人だけピンピンしていて、さらにマラソンを走れるくらい元気だったから。「ジジイ」は、若いのに血圧が異様に高かったから。本人は、スポーツマンによくある心臓肥大による高血圧だと言って、あまり気にしていなかった。社会人になっても元気なのは変わらなかった。深夜まで残業した後、横浜・保土ヶ谷の会社から自宅まで数キロ走って帰ったり、会社内の移動はエレベーターを使わずに階段を2段飛ばしで登ったりしていると自慢していた。

 学生時代はポジションが坂口はウィング、私はロックと違っていたことや、坂口が当初、自宅から通学していたこともあり、それほど親しくなかった。3回生ぐらいから坂口が銀閣寺近くにあったラグビー部員が多く住む「長谷川方」に下宿を始め、それから仲良くなった。


3回生の祇園祭のアルバイト。右から二番目が坂口誠さん

 坂口との学生時代の思い出と言えば、下宿の部屋が寒かったこと、彼のお母さんがしょっちゅう送ってくれる果物を剥くのに駆り出されたこと、そして「坂口ライブラリー」だ。

坂口は体温がやたらに高く、真冬でも下宿は暖房なしで平気で過ごしていた。

 彼のお母さんは健康に気を配った食事を大事にされ、実家では毎日、手製の野菜と果物のミックスジュースが出されていたそうだ。下宿した息子を気にかけて、せめて果物だけでも食べるようにと、様々な果物が送られてきていた。時にはパイナップルが丸ごと入っており、坂口は皮の剥き方が分からず、たまたま「知っている」と私が言ったら「来て剥いてくれ」と頼まれ、仲間何人かと一緒に下宿に行き、皮を剝いてお相伴に預かった。

「坂口ライブラリー」については、知っている人達だけの秘密である。


 坂口とは、社会人になってから学士ラガー倶楽部で一緒に過ごした時間が長かった。1993年のニュージーランド遠征と、その事前合宿(私は結局都合がつかず不参加となった)や、1997年の英国遠征、2018年の英国遠征、菅平での夏の不惑大会など、平成2年(1990年)(私は留年したので平成3年)に卒業してからも30年にわたって一緒にラグビーをしてきた。

1997年の学士・英国遠征にて。(左端が坂口さん)

 さらに、坂口の奥さんと私の妻はもともと友達で、私と妻を引き合わせたのは坂口だ。YC&AC(横浜カントリー&アスレチッククラブ)での学士の試合に、婚約中だった坂口と一緒に来た彼女が、私の妻を連れてきたのだ。そんな関係もあり、坂口家とは、結婚して子供できてからも、家族ぐるみでよく遊びに行った。同期と家族連れで毎年夏、「プリンスツアー」と称して箱根や軽井沢などにも行った。


2021年12月19日、京大対東大第99回定期戦スタンドにて。中央が坂口さん

 坂口が亡くなったとの連絡も、奥さんから私の妻に入った。12月26日(日)の朝9時頃。「主人が亡くなりました。」とのLINEメッセージが来た。私たち夫婦は、とっさには何のことか理解できなかった。わずか一週間前の12月19日、京大対東大の定期戦(東大100周年記念試合)のあった秩父宮ラグビー場で会い、一緒に酒も飲んでいたからだ。コロナ禍の影響で2年ぶりに顔を合わせ、現役のラグビー観戦を楽しみ、試合後は東大の連中も一緒にラグビー談義をしながら酒を酌み交わしたばかりだった。その時の坂口は、本当に元気いっぱいだった。しかし、気を取り直して電話して確かめると、今朝亡くなったとのことで、慌てて坂口の自宅に向かった。

 坂口家に到着し、話を聞いたところ、次の通りであった。前夜は12月25日のクリスマスで、料理の得意な奥さんが豪勢なクリスマス料理を作り、家族でワインを飲みながら楽しんだ。その後、坂口は出しそびれていた喪中ハガキを横浜中央郵便局に投函するため、夜中の12時頃に歩いて出かけた。大寒波が来ていた中、KIURFCで作ったパーカーだけを羽織っていた。よく夜中に一人で散歩に出かけて、1~2時間くらい帰ってこないことがあり、家族はいつものことだと思って、坂口の帰宅を待たずに就寝した。

 明け方4時頃に警察官が家に来て、「ご主人が亡くなりました。至急一緒に来て下さい」と言われた。午前2時頃、路上で倒れているところを通りがかったタクシーの運転手が見つけて通報。病院に運ばれて救命措置を施したが蘇生せず、帰らぬ人となった。持ち物を調べたところ、自宅住所が分かった。寒空の下、パーカーだけの薄着で、財布にはあまり現金も入っておらず、警察は路上強盗の被害を疑った。不審死として司法解剖され、死因は心筋梗塞と明らかになった。いくら体温が高くて元気いっぱいでも、酒を飲んだ後、夜中の寒い中で散歩をするのは、55歳のオジサンで高血圧なら控えた方がよかったね。



 2018年の学士ラガー英国遠征では、坂口と私はホテルが同室で、ラグビーに食事に観光にと一緒に楽しんだ。2019年1月の学士90周年記念式典に台湾大学ラグビー部のOB会の方が来られ、「2020年は台湾大学ラグビー部の75周年だから、学士ラガーにぜひ遠征に来てほしい」と招待があった。そこで、学士ラガーとして2020年に台湾遠征を行い、家族を連れて一緒に参加しようと坂口と話をした。ラグビー仲間や家族と、楽しくラグビーして、美味しい料理とお酒を楽しもうと思っていた。

しかし、その2020年初めに始まったコロナ禍で、遠征は延期となったままだ。コロナが落ち着いたら、坂口との約束を実現させようと思う。


坂口のご冥福を心からお祈りいたします。






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